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なぜ私はウルトラマンは喋ってはいけないと思ったのか

 光の国からやってきたヒーロー、ウルトラマン。彼は自身の手違いで殺してしまった人間のため一体化し、地球の平和を守るために戦った。その(人間と比べると)巨大で屈強な体で怪獣たちをなぎ倒し、最後は殺してしまった人間に命を与えて故郷へ去っていった。

 ウルトラマンは強い。何故か分からないが巨大だし、怪獣に立ち向かえる。腕をクロスさせると光線が出てくるが、三分くらい経つと胸のカラータイマーが鳴り焦り始める。これらの理由は、当時一切明かされなかった。ただ宇宙から来た不思議な銀色の男が怪獣を倒しているだけだった。

 それから何人のウルトラマンが地球の土を踏んだのだろう。彼らはふらりとやってきて、地球を守って去っていった。人類には理由を告げずに。それでも、戦う姿をみていれば頼もしい存在だっただろう。もちろんTVの前で見ている子ども達もだ。ウルトラマンが何かを語らなくても、我々はそれを演出だけで感じ取れていたのである。 

 べらべら喋る昨今のウルトラマンに対して、その神聖さや神秘さから望ましくないという声がある。たしかに語らなければ神秘的だし、それがいろんな想像を巡らせることになるだろう。だが、これは大人の意見だ。

 ウルトラマンは頼れる強い存在であるだけでいいのである。子どもたちがTVで観て、「強いな」「頼れるな」「きっといてくれる」「こんなふうになれたらな」と思うだけでいいのである。そして、それは演出だけで表現できることが可能であった。ある一定の幅をもたせた上で、子どもたちに肯定的な印象を持たせることができたのである。

 つまり、ウルトラマンに語りは本来は必要のない要素であるのだ。

 しかし時代の流れとともに様々な影響を受けていく。今やウルトラマンは話し、語り、喋ることが当たり前になっている。自分の考えはこうだ! と押し通すようになっている。これでは子どもたちは幅を持った考えをすることができない。由々しき事態だ。


 しかし、と考える。


 それでいいのかもしれない。今は何でも簡便になり、インターネットの発展で答えがすぐに得られる社会になった。これからの子どもたちに必要なのは、「時間はかかるが幅をもった個人の解釈」よりも「簡便に得ることができる決められた解釈」なのかもしれない。

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