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第8回 漫画「逢沢りく」(ほしよりこ)

どうも、自家焙煎珈琲パイデイアです。
今回は私にしては珍しく、漫画について書き留めておこうかと思います。


皆さんがご存じかご存じでないか存じませんが、私は基本的に漫画は読みません。
漫画は子供の読み物だ、みたいな今更流行らないステレオタイプを抱えているとかではありません。

漫画の読み方がわからないのです。
こんなこと言われる方が分からないですよね。

そんな漫画の読み方の分からない私でも、時々漫画を読みます。
それはU-NEXTのポイントの期限が切れそうな時です。使いきれなかったポイントがみすみす消えていくのが悲しくて、貧乏性に起因するのか、普段、読みもしない漫画を買ってみます。
映像の原作やスーパー銭湯の休憩コーナーでも読めるような漫画はなんだかポイントが成仏しきれないようで、せっかくだからいつもなら出会わない作品を読んで見ようと、私の中で「漫画推進協議会」の元老に就任している方にお伺いを立てます。
まぁ最も、普段、漫画を読まない私からすると、どんな漫画もいつもなら出会わない作品なわけですが。

今回の作品は元老からの紹介でした。
人から紹介されたものをここに出すのは自分で見つけたものではないので、ちょっとズルい気もします。
でもね、別にここは私のセンスを誇示する場所でも、私のアンテナの感度をひけらかす場所でもありません。
私が面白いと思ったり、記憶しておきたい作品を言語化して密閉保存するための場所ですから、人からの受け売りで大いに結構。そうでしょう。

というわけで、作品について残す前に、少し前段が長くなりました。
これはきっと私自身への言い訳なんでしょう。読み飛ばしてくださっても構いません。

さて、今回の「逢沢りく」は何が良かったのか。
良かったことかどうかわからないけれど、これを読み終わって思うことは、きっと私も今現在のことなんか見えていなことが多いんだろう、ということだ。
人は見えているものを自分の世界の全てだと考える節がある。

主人公はタイトルにもある逢沢りく。都内に住む14歳の女子中学生です。
父親が会社の経営者、母親はアパレル関係の職場に復帰しようとしている専業主婦という、おそらく割と裕福な家庭で育てられています。
いつでも泣けるという特技のような性質を持っているりくは自他ともに認める、ちょっと特別な存在です。

今年30歳になる私だって、まだどこかに自分の中にあるかもしれない特別な可能性を捨てきれずにいます。ましてや、中学2年生なんて自分が普通の存在だということの可能性すら考えてもしないでしょう。
そんなりくを学校の友人も家族も、嫌な言い方すると、チヤホヤします。そして当人もそのチヤホヤを当たり前に受け入れていきます。
父親とその職場のバイトとの浮気も知っている、母親がそれを知っていることも知っている、その上で、母親がりくにどう立ち回って欲しいかも知ってる。
自分はそれくらいのことはお見通しで、何もかも知っている。

おそらく、そんな自信も自分の存在を特別だと思わせる何かに起因しているのでしょう。

そんな彼女は、ずっと母親から悪く聞かされていた関西の親戚の家に預けられることになります。

私はこの展開を、りくが見えていた世界がこの世界の総体ではなかった、という風に解釈しました。
母親がりくに求めていると思っていた立ち振る舞いは、りくが分かっているつもりの世界でしかなかったのかも、と思うのです。
母親がりくに対して抱いている不信感、ある種の嫌悪感、きっとこれは母親がりくを自分と同族だと認めているところに起因しているんじゃないかと考えているんですが、がりくには見えていませんでした。

関西での生活の全てを毛嫌いし、何でもかんでも当たり散らします。
新しい学校の同級生、たまにやってくる持病持ちの少年、終いには関西弁にまで当たり散らします。

今まで自分は何でも分かっている、全てを知っている特別な存在だと思っていたりくにとっては、誰からもチヤホヤしてもらえない世界は知らない世界なのだと思います。
転校初日、関西の学校に早くも息苦しさを感じたりくは、東京の頃、早退するための手段として使っていた、嘘の涙を流します。
東京な周りにも先生にも心配せれて、帰れるところが、関西ではそうはいきません。冗談で流されて、授業が進んでいきます。
きっとそんな世界もりくの知らない世界なのでしょう。

関西弁はうるさい、友達はいらない、お好み焼きなんか食べない、と関西に預けられたことに納得のいかないりくは、とにかく母親に意地を張り、帰ろうとしません。
しかし、その一方で、関西の親戚の生活を無意識で「ママなら」と比べてもいます。
この辺り、まだ、自分一人で世界を構築していたわけではない、母親という誰か越しに世界を認識していた子供なんだ、と感じます。

そんなりくは関西での生活を通して、少しづつ泣けなくなってきたことに気づきます。
特に大きな出来事が起きるわけでもありません。しかし、りくは一人で今見えている世界を自分で構築し始め、嘘の涙がいらなくなってきたのでしょう。

そして、東京に帰る日が近くなった日、りくは誰もいない河辺で大きな声を出して泣き叫びます。嘘ではない涙が流れるのです。

私はこれは赤ん坊が生まれた時に泣くのと同じなんじゃないかな、と思ったりしています。
りくの世界が初めて感情も含めて築かれたのだと思います。

爆笑問題の太田さんは常々いう話に、赤ん坊の鳴き声は全てなんだ、という話があります。
喜びも怒りも苦しみも悲しみもその全てなんだ、と太田さんは言います。
そして、我々は人生を通して、喜びだったり、怒りだったり、苦しみ、悲しみ、と言う言葉を獲得し、経験していくのです。

これは一つの解釈に過ぎませんが、何だか、この物語を読んでいると、太田さんのいうことが分かるような気がするのです。
りくは今まで知っている気で、知らなかった世界をこの時初めて認識して、吐き出したのです。自分は特別なんかではない、母親のことはおろか、周りの人のことも分かっていなかった、と。

もし、人生が太田さんの言うように感情にまつわる言葉と経験を獲得していく物語なのだとしたら、りくの物語はここから始まるのでしょう。

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