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余白には人を惹きつける力がある

真っ白い画用紙に絵を書きたくなったり、
空白のスケジュールを予定で埋めたくなったり、
スペースのある収納棚に物を詰めたくなったり、

人は何もない余白や隙間に、つい動かされてしまう。

枯山水は、実際には岩や石や砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな世界を観じていこうというものですね。(中略)しかも枯山水は水を観じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまっている。つまりそこには「引き算」という方法が生きているんです。それが新しい美を生んだ。

17歳のための世界と日本の見方

枯山水が、岩や石、砂があるだけなのに、そこに水の流れを感じるように、人は”何もない”ことによって、その存在をより強く感じてしまう。

こうした余白には、人を動かしたり、惹きつけたり、考えさせる力がある反面、今の世の中ではあまり重視されていないのかもしれない。

マーケティングやブランディング、エンタメ作品も、誰もが同じイメージや感想を抱くような強いコミュニケーションが行われる。
わかりやすく、一貫性がある反面、そこには見た人や受け取り手の余白は存在しない。そこには受け手の考える余地や、自分の文脈に置き換える余地がないため、発信者の意図の範囲でしか広がりが生まれない。

具体的な根拠やデータは?実現可能性は?利益は?
こうしたビジネスで言われることの多い文脈も、もっともらしい反面、同質性を高めてしまう。合理的な正解をみんなが求めてしまうがゆえに、一人ひとりの持つ可能性は消えていってしまっているのかもしれない。

だからこそ、もう少し不完全で未完成で、曖昧なものにも価値が生まれたほうがいい。映画や小説でも、伏線が綺麗に回収されたり、大逆転劇があると、楽しいと感じる反面、広がりが生まれない。「あのシーンはどういう意味だったのだろう?」「自分的にはこうだと思う」「このほうが面白い」そうした、個々人の解釈が生まれる余白が、ビジネスやエンタメにかかわらず、あらゆるシーンで大切なのかもしれない。

作品は「時をあけて」語り直される。これは遅効的なもの。人は美術館のあとカフェで語りあい、夜にバーの隣席と映画について議論し、かつて読んだ本のことをソーシャルメディアに書き込む。そこで語られるのは往々にして、自分自身のエピソードだ。生活のこと、仕事のこと、自らの思想を、作品に投影し解釈する。それはあくまで個人的なものであり、ときには誤読ですらある。でもその作品について真に語りたい欲求があるとき、人は誤読を恐れない。そこでは他者による作品と自身による解釈は一体化する。この「語り」によって、たんなる即時的「消費」を超えて、読み手は作品とあらたな関わりを結ぶ。そして、その瞬間に読み手は書き手に入れ替わる。結果生じるのは作品との主体的な関わりと多義的な解釈だ。

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