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石神井の閉店ラッシュ

 十数年ぶりに井伏鱒二の随筆「荻窪風土記」を読み直した。ここでは関東大震災から第二次戦争後までの間の荻窪界隈の様子が描かれている。
 冒頭、土地っ子で正直者の話として「関東大震災前には、品川の岸壁を出る汽船の汽笛が荻窪まで聞こえていた」と紹介されるくだりは、いつ読んでも味わい深い。すでにその頃の荻窪の風景は失われているからだ。 
 その本を買ったのは石神井に住み始めたばかりの頃だが、荻窪もその頃より詳しくなり、理解が深まった気がする。「荻窪風土記」では、店舗の実名を延々あげる箇所が度々あるが、今は存在していない店ばかりにもかかわらず、馴染みがあるように感じるから不思議だ。詳しく書きこむことで、ようやくひとつの街の変遷や時代の空気が伝わるということか。
 
 石神井公園駅南口の再開発については、最近、やっと全体像が見えてきた。いや、計画自体は早々に提示されていたのだが、年末年始にさまざまな店舗が閉店したのをきっかけに、再開発は待ったなしという現実に気づかされている。
 駅南口すぐのところに26階建、9階建ての二つの建物が建設され、間に「補助232号線」という富士街道に抜ける道路が出来るようだ。約100メートルの高層ビルには、老朽化した石神井庁舎が移るかもしれない。反対運動もあり、予断は許さないが、街の形を変える工事が今後数年間にわたって続く。

「石神井公園駅南口西地区第一種市街地再開発事業」

 再開発に伴い、パン店の「サンメリー」、二階の「星乃珈琲」はすでに看板を下ろしている。スーパーマーケット「まなマート」は一号店、二号店ともに閉店。間の細い道はすでに通行不可となっていた。残っていた「大鷲神社」は和田稲荷神社へと仮遷宮。境内では毎年立派な桜が咲いていたけれど、今年がどうなるのか気がかりである。
 かなり早いうちに二階建ての「Coco壱番屋」が無くなった。その後「富士そば」「松屋」などチェーンの飲食店は軒並み閉店している。
 再開発だけが理由かは分からないし、「閉店」と「移転」の境目は難しい。創業100年を迎えたばかりの和菓子処「新盛堂」については、すでに仮設店舗で営業されているそうだ。好きだった中の喫茶室は少し前に閉じている。
 道路の際まで商品があふれていた100円ストアも閉店らしい。もともと単価が安いのに先日は閉店セールを行っていて、いつも以上に人を集めていた。
 これでも閉店・移転した店の一部に過ぎない。二月最後の三連休時点では、このエリアで営業を続けている店の方が少なかった。

閉店、移転ラッシュである

 そんな中、残っていた飲食店の一つが「鳥梅葡酒 石神井公園駅前店」だ。入店せずとも、焼き鳥を焼く入口近くの炭火の煙には気づいていたと思う。高架化以来、駅の周りはすっかり新しくなったが、かえって外観の渋さが際立っていた。
 店はカウンターとテーブルが数席。値段も手ごろで、一人呑みにも都合が宜しい。閉店ラッシュの中、しばらく前の貼り紙には「当面の間通常営業致します」旨、書かれていて、心強かった。
 ところがその日、食事をすませて店の外に出ると、「29日」(つまり本日)を持って店を閉じ、あらたに近隣で場所を探す運びを知った。最後に「またお待ちしています」のことばをかけられたのが寂しい。

「鳥梅葡酒 石神井公園駅前店」

「荻窪風土記」で描かれた関東大震災から、去年でちょうど百年になる。「あとがき」の中で井伏鱒二は、「関東大震災で東京は急に変化して、太平洋戦争でまた締めあげられたように変った。とにかく、そういうことになってしまった。」と書いている。
 脚色なしの実話だが、鳥梅葡酒を出て駅に歩いて行くと、街を歩く女性が「高いビルばっかり建てて。高齢化だって言っているのに」と家族に話しかけていた。再開発の良し悪しはともかく、事実ではある。東京の「締めあげ」は、相変わらず続いている。

酉の市も和田稲荷神社で行われた


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