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節目のおはなし

本当に久しぶりの投稿です。今月迎えた誕生日の日に、記事を書こうと思って開いたnoteだけれども、下書きには「29歳になりました」の1行しか書かれていなくて、少し笑った。それを消して、今日は久しぶりに書いてみようと思います。

書くこととの距離感を測って測って測りすぎたせいで、書くことへのハードルが高くなりすぎていました。もう少し肩の力を抜いて気楽に発してもいいんだと思います。

節目について。暮らしていく中で物事と物事の節目が来ることはそう多くないと思っていましたが、ここ数年は外部から強制的にやってくるものやら自ら選んで迎えるものやらを合わせると、それが頻回すぎて、その境の深い溝に落ちていきそうな目まぐるしさです。

今は短期的には終わりと始まりの間にいながらも、中期的な目で見ると終わりの中にいて、長期的な目で見れば大きな始まりの中にいます。

今は誰がみているかわからない場所なので、まだ中長期の計画については詳しくお話することができないのですが、短期的なところでいくと10月からの職場の異動に向けて、6ヶ月働いてきた教室での最終勤務を昨日終えたということかな。

次の職場には3日後に入ります。これが終わりと始まりのこと。

また新しく会える人や久しぶりに顔を合わせる人との再会を楽しめるほどすごく元気なわけではないので、淡々と過ごしていきたいと思います。

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Twitterにも書いたけれども、「終わりと始まりをセットで考える」みたいなことは今の会社での異動ありきの生活で身についた思考です。

異動も5回目で、ここ1年は半年に一度働く拠点が変わっていく生活をしていると思考として「始まるときには終わりまでセットに考える」という感じになるんだよな どこで終わりか、っていうのと、主体的にやり始めることだとしたら、どこまできたら終わりにするか、を描いてから入ることが多くなる気がする。

ただ、これは表現の分野に関しては除外されているようにも思う。 表現は滲み出たものの結果だから予測がつかない ゆえに終わることを想定することはない。

書いているみたいに、表現の領域では終わりを見つけることはしないし、できないなと感じます。この間のラジオドラマの企画に参加させてもらったときもそうだった。終わりがない、キリがない。それがとてつもなく苦しいし、とても楽しいんだ。

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今日は、ワクチンを打ってもらいまいた。ワクチンの案内の手紙には「**病院」と書いてあるのに、現地を訪れると病院の横の空き地に立てられたプレハブの掘立て小屋が接種会場で、少し笑いました。

健康診断の時にも思ったけれども、看護師さんって、かけてくれる声かけがとっても優しくて、胸がジンとして嬉しいんだけれども、その一方で思うのは、人が使える優しさにはキャパがあるから、プライベートでは死んだ目をしていないかなって、勝手ですが、心配していました。

福祉の仕事も似たようなもんで、8時間もニコニコしていると疲れることもあり、退勤した瞬間から目から光が消え、表情がなくなることもザラにあるので、近い職種としてなんだか思うところがありました。ただ、注射はそれほど痛くなかったし、熱はまだ出ていないです。看護師さんに感謝です。

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最近は身体や運動のことをよく考えています。学生のときには心理学をかじって、心理の仕事をやっていても、結局人の心のことってよくわからないんですが、身体って明快、だって目に見えるし。

特に自分はヨガを日常的にやっていて、骨や筋肉のことに関心があります。今はヨガ好きが高じて、そろそろヨガのインストラクターをやろうかなと思ったりするくらい。

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先日29歳になりました。いつか思い描いていた29歳とはまったく違うんだけれども、これは数年前にもまったく同じことを思ったので、たぶん35歳、50歳になっても想像してた通りの未来は来ないんだろうなと思う。それでも当時の頭で想像できることには限界があったんだなって感じるくらいには、豊かだし、怖いし、楽しいよ。だからなんとなく大丈夫な気がする。

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驚くくらいに書きたいことって出てくるし、あまりにキリがないのでこれで最後にしたいと思うんですが、最近、とんでもなく面倒くさい自分の性質に気づいてしまいぎょっとして、それに気づいた帰りの電車の中でショックでわけもわからずシクシクと泣いてしまったことがあったんだということを思い出して終わりにします。

ある場にいくと、自分の意見が出て来なくなって、話せなくなってしまって、その場で話されている事柄に「そうなんですね」「なるほど」とかって相槌を打つことしかできないことがあって。

そのときの感覚がとても苦しくて、”よく見せたい”とか”ちゃらんぽらんなところは見せられない”と見栄を張ってかっこつける一方で、身体から出る無意識が”察して”と言っているようで(そしてそれを見透かされているようで)、意識してコントロールして見せているものと(たぶん)無意識に体から出ているコントロールしきれないものに天と地ほどの隔たりを感じて、バラバラになるんじゃないかと思うくらい苦しかったのを覚えています。

海の中では息ができない苦しさから人間って息をする性質の生き物なんだって気づくように、ある場においては感じないことも、別の場に行くと感じることから自分のまた新しい一面がフォーカスされてしまうということってあるよねという話です。

この性質はたぶん29年間の生き方の履歴として残っているものだと思うので、長い目で付き合っていくしかないのだろうなと思い、しばらくは”そこにいる”ということだけを感じながらそっとしておこうと思います。

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