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映画版CATS:リアリティに殴られ続けながら観るファンタジー

映画版CATSがすごすぎたのでざっくり感想!!!
ネタバレありだが感想を吐き出しているだけなので不親切なことをお断りしておく。
ちなみに私は舞台版は未体験、猫はかわいい♡と思うが飼ったことはない。
キャッツシロウトだ。

CATSにはこの映画評を読んで興味を持った。
「キャッツ」がホラー映画である「8」の理由 悪夢に支配され、あまりの恐怖に涙する
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2001/25/news020.html
あまりの悪評に、怖いもの見たさで映画館へ行くことにした。
場所は渋谷のTOHOシネマズ。平日でも会社帰りで来れる時間帯だったせいか、客入りはそこそこ。
観る前は「ひどいジョークとしてなら楽しめるのでは?」なんて甘い考えをしていた。実際はそんな余裕はなかった。
上映開始から2時間後、私は信じがたいほど疲れていた…。

とにかくビジュアルが強烈すぎて何も入ってこない!!!

すばらしい歌もダンスも美術も物語もキャラの個性も感情も、すべて謎の「猫人間」のビジュアルの前に勝てず、吸収されていく。
上記のねとらぼの記事では「見た目にはけっこう慣れてくる」とあったのでそれを期待していたが、自分は最後の最後まで慣れることはなかった。
猫だと思いたくてもあらゆる部分が人間なのだ。手は完全に人間の手だし(肉球に言及する歌詞があるがそんなもんどこに?)、赤い唇、骨格、脂肪や筋肉のつきかた…
特にマンカストラップが曲者だった。キャラはそんなに濃くないが、案内役のため頻繁に画面に登場する。その度に面長ゆえの圧倒的な人間感に激しく現実に揺り戻されるのである。CGで猫の毛並みを再現するくらいなら顔を短くしてほしい。
あと、終盤で毛皮を脱いだマキャビティはただの筋肉質な裸の男性だった。猫の要素がほぼない!!!

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序盤最大の悪夢である、大量のゴキブリによる行進、考えた人の頭が心配になる驚愕のファンシーケーキや食虫シーンも虫嫌いとしては顔が引きつりっぱなしだったが、ネズミも負けず劣らずすごかった。着ぐるみから人面が出てるおふざけ感。今日日バラエティ番組でもあんなんないと思う。これに比べれば猫たちはマシなのか…?と思ってしまった。

グルメな紳士、バストファージョーンズはモンティ・パイソン「人生狂騒曲」のクレオソート氏の影がチラついた(テリー・ジョーンズの冥福を祈る)。吐かないだけマシだったが、野良猫がゴミを漁るのは許せるとしても、人間が嬉々として生ゴミを漁る姿はどうしたって狂気である。

序盤のコミカルなシーンは猫の習性や仕草を反映しつつ、明らかにバッドテイストを狙って作られている。
ゆえに他のシーンをどう向き合ったらいいのかますます混乱する。全編「本気でおとぎ話やってますけど?」みたいなお上品な顔でいてくれたほうがまだよかったように思う。いや、やっぱりそれすらももはやどうでもいいことか…

この映画の「猫人間」への違和感の次に大きい問題は、グリザベラとほかの猫たちの違いが不明瞭なことじゃないだろうか。「メモリー」は間違いなく名曲だが、作中のグリザベラの盛衰がよくわからないので、他の猫たちから邪険にされている理由もいまいち飲み込めない。グリザベラは「毛皮がボロボロ」だというが他の猫たちだってほとんどが野良なのでは?と思ってしまう。要は気高い精神を持ち続けている者と失ってしまった者、という構図なのだろうが、それが視覚的に分かりづらいのだ。グリザベラは大抵暗がりにいるため、闇に紛れてさらにボロ感がわかりにくいときた。
ほかにもラム・タム・タガーの魅力やミストフェリーズの手品(魔法?)も「ふーんそうなんだ」くらいにしか思えなかった。ただ私の脳みそが視覚情報の処理で手一杯というのがかなり大きな要因のような気もする。

オールドデュトロノミーの登場シーンやその後のダンスシーンも「これは結構ヤバいな」とは感じたものの、その後の困惑の連続でなぜそう感じたのか忘れてしまった。なにがどうヤバかったのかすら記憶喪失。

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あと、どのレビューにも書かれていることだと思うが、この映画は全体的に意味不明なくらいエロい。「猫の動き監修」的な人がクレジットされていたので、猫の仕草をかなり反映しているのだとは思う。しかしそれだけが原因なのだろうか。
物語の大筋に性的な要素がないためとにかくエロがスクリーンから浮いている。まさに「無駄にエロい」。意図的にそうしたのか、結果的にそうなってしまったのかもわからない。わからない……!

鉄道猫、劇場猫などの「職業猫」が出てくるとかなり脳がバグることも発見した。
人っぽい猫なの?猫っぽい人なの?たま駅長みたいなもんなの?それもこれもやはり人間味ありありのビジュアルがぐいぐい邪魔してくる。
たま駅長なら「猫なのに駅長」でかわいい。
しかし「猫風味の人間(小人)が車掌」だと、業務内容やら雇用形態やら賃金やらが気になってしまう。なんのために働いているのか?なぜそんなに影響力があるのか?世界観がわからなくなる。

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どんなにがんばっても猫とか人間とかもう頭がパンクしそうだから、もう異世界や異星人的なものとして処理しよう…と思っているとたまーーーにニャーニャー鳴いたりするので、やっぱり猫かい!となる。
ずっと人語を喋っている(翻訳されている)のに、急に猫の鳴き声が聞こえてくると翻訳されていない世界(現実)に戻されてしまう。

これはおとぎ話であり、レビューであり、幻想的な詩であり、ロジカルに理解するタイプの物語ではないとはわかっているのに、目の前に圧倒的にリアルなビジュアルが迫ってくるので、踏ん張りたくてもすぐバランスが崩れるのだ。リアリティに殴られ続けながら見るファンタジー。ざっくりした内容とルックのスーパーリアリティが齟齬をきたし、超絶写実的な抽象画を見ているようなそんな気分。

この脳に負荷かかりまくりの感じは何かに似てるな…と思ったらパソコンだった。
重いアプリケーションを立ち上げてる途中なのに、次々と新しいアプリケーション(猫の紹介)が立ち上がるので、脳の処理能力が著しく低下、そんな感じである。
しかもバックグラウンドでは「猫人間」に対する違和感を常に処理し続けているのである。そりゃメモリ不足にもなる。
猫の映画を見て、こんなにパソコンの気持ちが体験できるとは夢にも思わなかった。これが「一生に一度の体験」か…。
そんなわけで、難解なストーリーじゃないのに異常な脳疲労となった。
私はさすがに終盤の「メモリー」あたりで処理能力の限界を感じ、目を瞑って観たときに初めて素直にいい映画だと思えた。

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そんなこんなでクライマックス。オリジナルを知らない自分は、劇中で何度も繰り返される「生まれ変わる」「新しい自分になれる」が比喩だと思ってたので物理的に天国に連れてかれて呆然。さらに脳に負荷!
でももうこれで終わりだろ、ようやく解放される…と思いきや、最後の最後でオールドデュトロノミーが第四の壁を突き破ってくる。さすが長老である。強い。しかも一言で終わると思いきや、そこそこ長い。なんかトリセツみたいなことを言ってるけど彼女の言葉を理解する余裕はゼロ。
こんな最後に爆弾みたいな負荷をかけないで!!!と懇願しているとやっとエンドロールとなった。
スタッフの皆様お疲れ様でした。

ストーリーを楽しむ映画としてではなく、日常では絶対に得ることのできない怒涛の困惑を体験しにいくのであればおすすめである。
そういう映画体験があってもいいと思う。
ここまで書いといてなんだが、私にとってはそこまで地獄でもなかったし、損をしたとも思っていない。
なんならネットで配信されたらもう一度観てしまう気がするし、もしかするともう一度映画館に行くかもしれない。そんな不思議な映画だった。

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最後にちょっと真面目な話。

このメイキングでトム・フーパー監督が「贖罪と多様性の受容の大切さを説いている」と語っている。
多様性。個性的な猫たちがそれぞれの魅力で輝く…というのはわかる。
わかるのだが、私は観ているうちにだんだん怖くなってしまった。猫人間に恐怖を抱いたのではなく、自分が強烈なビジュアルに引っ張られていることに対してだ。
冒頭で“歌もダンスも物語もキャラの個性も感情も、すべて謎の「猫人間」のビジュアルの前に勝てず、吸収されていく。”と書いた。“目を瞑って観たときに初めて素直にいい映画だと思えた”とも書いた。素直にそう感じたからだ。
もし、明日目が覚めて、家族や友人や同僚が猫人間になっていたら?初めて会う人が猫人間だったら?私は彼らに対してビジュアルに引っ張られずに評価できるのか?猫人間じゃなくとも、ちょっと奇妙だったり見慣れない人に対してどう接するか?
私は差別はよくないと思うし、できるだけ気をつけてもいる。しかしスクリーンに映し出された違和感は2時間にわたって私の"綺麗事"を試しているようだった。そもそも私はこのプロフェッショナルたちが本気で作った映画を見世物小屋感覚で観に来たのである。
そんなふうに考えると、この映画を「気味が悪い」「最低の出来」などとも一蹴できないなと思うのだ。
「映画はこうあるべき」なんてことはない。こんな映画もあっていい。多様性の受容とはそういうことなのでは。
まあ私の考えすぎかもしれない。

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マンカストラップの面長だって多様性!

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