多様性を肯定する場としての芸術

あいちトリエンナーレの一件で今まで考えたことないくらい、芸術について考える時間が長くなりました。
私は現代美術にちょこっとだけ足をつっこんでいます。なので基本的には作る側としてあの騒動を見ていました。自分の作品に政治性はほとんどありませんけど。

ご存じのとおり、「表現の不自由展・その後」をめぐる一連の流れには、権利、公金、政治、暴力などいろいろな要素が絡んでおり、それぞれ詳しいことは専門家の方が話してくださっていると思うので、わたしは自分が感じたモワっとした話をしたいと思います。

私は芸術に救われてきました。
作品に感銘を受けて人生が変わったとかいう劇的な話ではありません。現代の芸術の周辺にはマイノリティの肯定、多様性を認める場がたしかにあり、私は長い間その環境にいたことで救われてきました。逃げ場として芸術を選んだのではなく、好きなことを選択したら幸運なことに環境が合っていただけですが。
私は今年の春に会社を辞めました。サラリーマンに向いてなかったと感じた理由として、商業的(マジョリティ的)な価値観で動く人々の中にいるのが息苦しくなったということが結構大きな部分を占めています。
別に“場としての芸術”がユートピアだとも思っていませんが、私にとって少しは息がしやすい場所であることは間違いありません。そこには作品を理解し、価値を認めてくれる人々がいるからです。

私はあいトリには結局行けていません。なので不自由展の出展作品について、実際に見たわけでもないので善いも悪いも感想は特にありません。
キュレーションが良くなかったという反省に対しては、きっとそうだったんだろうな、という印象を持っています。不自由展側になにも問題がなかったとは言えない。
しかし、出展作品に対して向けられた「ヘイト」「美しくない」「不快」という言葉は、芸術とは「(一方から見た)正しい思想」に基づくもの、「誰の目にも美しいもの」であり、「人畜無害な表現」でなければならないということになります。

冒頭で書いたように、私の作品に政治性は特にありません。他者を不用意に傷付けるような表現にならないようにできるだけ気をつけているし、美しいものを作っているつもりです。上記のルールを設定されても、私の作品自体にはほぼ影響はないと思います。
しかし表現にルールが振りかざされたとたん、“場としての芸術”から多様性の保障は剥奪されます。ルールの内容は大して重要ではなく、ルールが設定されること自体が問題です。自分の作品を規制するものではないから無関係ということにはなりません。

今回のような、正しさ・美しさ・害のなさを押し付けられるということは、芸術に「商業的基準」を求める人々の価値観によって、多様なマイノリティがなんとなく共存できている環境が侵略されるということです。
「侵略なんて大げさだ」という人はいると思います。でも私は価値観の押し付けという暴力が本当に恐ろしい。

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