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〈テキストブック〉と〈テキスト〉について【日本語が亡びるとき】

一年ほど前に買った「日本語が亡びるとき」を久々に開いた。

「本は読めないものだから心配するな」をテキトーにパラパラめくっていたら、水村美苗のこの本について書いてあったので、買ってあったのを思い出したのだ。

1章のほぼ終わりまで読んでいて、今回は一気に3章の終わりまで読んでしまった。

集中力ってか、興味のある分野の本って、あっという間に読めるから怖いよね…

〈学問〉と〈文学〉の違い

水村美苗の説く〈学問〉とは、「人類の叡智の積み重ね」であるが、究極的な意味では、〈読まれるべき言葉〉ではない。

何をいっているかといえば、つまりは〈学問〉が発見する〈真理〉というのは、別にどんな言葉で書かれていようが、また誰が見ようが絶対的に〈真理〉なのである。

だから、〈学問〉の中に在ることばは、必ずしも原著のことばで読まれる必要は無いのである。

このような知識は、教科書〈テキストブック〉によって十分に拾得することが可能だろう。

発見した当人のことばでなくとも、誰か別の第三者が書いたことばであったとしても、〈学問〉の〈真理〉は何ら遜色なく伝わるのである。


しかし、〈文学〉はそうもいかない。

そこに書かれた内容、いわば〈真理〉は、それを表す言葉自体に依存・依拠している。

その言葉無しには、その〈真理〉は全く意味を持ちえないのである。

例えば、「太陽は東から昇る」という〈学問〉の〈真理〉は、このように日本語で述べても「The sun rises in the east.」と英語で述べてもなんら内容に違いはない。

これが先に〈テキストブック〉で済む、つまり本性的に〈読まれるべき言葉〉ではない、ということの意味であった。

一方で、「吾輩は猫である。名前はまだない。」や「その男の写真を三葉見たことがある。」という文は、〈真理〉であるが、これだけを抜き出して述べたとして、なんら特別な意味(情緒)を持たないであろう。

せいせいが、ああなんか誰かが男の写真を3枚見たことがあるのか、程度のものだ。

この文、つまり〈文学〉の〈真理〉が意味を持つのは、これが小説のある一文、さらに言えば書き出しだからである。

このように「ある小説の書き出し」という特殊な文脈があってようやくその意味が定まってくるような〈真理〉は、まさにそのまま〈読まれるべき言葉〉であり、また〈テキスト〉無しには成り立ちえない文なのである。


水村さんはこれ以上深入りしていないが、少し深入りしておくと、〈学問〉においても〈テキスト〉が必要なことは往々にしてあるだろう。

例えば、科学史をやっていると、「当時一般に了解されていた常識はなんであるか」という、その文脈を探る必要性に駆られたりするからである。

これは、単に教科書に書いてある「ニュートンが万有引力を発見した」という〈テキストブック〉方式の〈真理〉では到底太刀打ちできない深みを持った〈学問〉の相を持っていることが分かるだろう。

ニュートン自身の著作・書簡、同時代人の著作、ひいては過去の人物の著作その他、まさに〈読まれるべき言葉〉そのものに触れなくてはならない。

そこでは、書かれた言葉が持つ重みには、雲泥の差がある。平たく言えば、〈読まれるべき言葉〉とは、世界に一つだけの代替不可能な代物であり、教科書では捨象されたコンテクストそのものなのである。

[余談]〈テキストブック〉→〈テキスト〉へのシフト

水村さんは一切ここら辺の話はしていないし、そもそもここまで深く考えて教科書という言葉を出したわけではない(第3章までで、教科書という言葉が出てくるのはここが最初で最後だった)ので、以下は完全に私見である。悪しからず。
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世の中には、「参考書」と呼ばれる部類の教科書がある。

もっとも、教科書と参考書は別物だ、といったらそれまでなのだが、同じ内容を教えているという点では同じだろう。但し、その語り口が違うのである。

教科書は、半ば機械的に指導要領に沿った内容が羅列されている。

それは、水村さんが〈テキストブック〉という言葉で語った、単なる無機質な「読まれるべき言葉」ではないものの列でしかない。

一方で、参考書とは、その一言一句が作者の創意工夫に満ちた言葉の並びではないだろうか。

抑揚があるとでもいえばいいのだろうか。詳しくは、以下の記事に目を通していただきたい。

要は、その著者のシナリオに沿って〈真理〉が語られるのが教科書と参考書の違いであろう。

ということは、参考書は〈テキストブック〉ではなく〈テキスト〉であるということになる。

私たちが勉強していて迷うのは、この〈テキストブック〉と〈テキスト〉の使い分けが上手にできていないせいであるともいえるかもしれない。


※水村さん自身は〈テキスト〉という言葉を〈文学〉に照らして使っている。しかし、別の言葉への非可換性、という論点を踏襲するならば、参考書もまたこのように〈テキスト〉であると解釈できるだろう。

最後に

私などは、力学を最初に勉強したときに「力」の概念がよく分からずに物理を諦めた苦い思い出がある。

大学生になって、有賀さんの書かれた「力学の誕生」を読みかけていて、そこに新たな糸口が見えつつある。

義務教育的な意味での教科書は、あれはあれで水村さんの唱える〈テキストブック〉として完成している。

しかし、世の中の人すべてが〈テキストブック〉でその〈真理〉を理解できるわけではない。

ゆえに、〈テキスト〉としての教科書も多く存在しているのかもしれない。需要あるところに供給あり、だ。

それが参考書であり、例えば、いろもの物理学者の「よくわかる○○力学」やら、EMANさんの「趣味で○○力学」なんて恰好な例でなかろうか。

あそこで語られる論理は、あの本を読んで初めてヴィヴィッドに伝わる節があるのだ。

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