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不適切にもほどがある7話 回収しなきゃダメですか?

 おじさんたちはみんな純子の味方だ

 大前提として、小川市郎(阿部サダヲ)の娘は小川純子(河合優美)であり、小川純子の娘は犬島渚(仲里依紗)である。小川純子は犬島ゆずる(古田新太)と結婚している。ここまで明らかになっているのは、犬島渚の母は2歳の時に震災で亡くなっている。

 これを踏まえて、令和の時代に大人になった渚の前に、昭和の時代から17歳の純子が登場する。渚にとって母との思い出は2歳までしかない。母が自分より年下の17歳で登場したら、その時だけでも目いっぱいの幸せを願いたいと思うのだろう。

 もし私の目の前に昭和の時代から17歳の私の母がタイムマシンに乗って現れたらどうするのだろうか。なんだこの女はと思うのだろうか。ホントのところどんな反応するのかわからない。もし同じような感じで父と娘、母と息子みたいなシチュエーションだったら、ラブコメやらたちの悪い官能小説みたいな感じになるかもしれない。私も17歳のころの母親の写真を見たことがないから想像もできない。母ちゃんは私を28ぐらいの時に産んだけど、その時のかあちゃんがどんな感じだったか全然覚えてない。物心ついた時にはいつもヒステリーあげて怒られた記憶しかないけど。

 私のことはともかく渚と純子の関係では、今できるありったけの幸せを送るべく渚が純子に服を買ってあげて美容院に連れていく。昭和60年代の聖子ちゃんカットにセーラーズファッションの純子がバブル期のワンレンボディコン・コギャルのへそ出しルックを飛び越えて、令和の今どきのファッションを違和感なく受け入れている。1995年にアムラーがポツポツと登場し始めたから、結婚して子供を産んだ純子はアムラーは通らないかもしれない。

 純子が令和での目いっぱいの幸せをかみしめるべく、岡田将生が演じる美容師のナオキとデートすることになる。美容師との一夜限りの甘いひと時、純子はいつか現代に戻らなくてはいけないので、一夜限りの恋となる。この手の作品では、「世界の中心で愛を叫ぶ(見てない)」のような「余命〇日」のような作品が感動よび、いつしか定番となり始めている。この感じもベタだと馬鹿にしそうだが、純子は余命9年だし、渚は母との思い出がないからそのまま成立する。

 しかし、初見では純子と美容師の恋は箸休めの回だと思ってしまった。それでいて美容師の岡田将生をみて、「これだからZ世代は」と我々おじさんを舌打ちさせようとしている。おっさん世代からしてみれば、小川市郎に不快感を感じたとしても、もはやみんなが純子の味方となっている。ノリノリで杏里の「悲しみがとまらない」を歌っているのを見て悪い気はしなかった。ここ最近のシティーポップリバイバルから、懐かしさから目頭が熱くなった人もいるかもしれない。にもかかわらず岡田将生の「やべー一曲も知らねー」っていうのが、軽薄な感じで舌打ちしそうになる。そのうち、私の青春だった90年代J-POPも全然知らねーと馬鹿にする若者が出てくるのか。

 江の島の楽しいデートを経てクライマックスのディナー、令和ではお支払いもスマホで完結する。なので現金を全く持たなくても成立する。しかし、あろうことかデート中にスマホを落としレストランのお支払いが全くできないスマホをなくして何もできなくなったというよく聞く笑い話だが、使いこなしている人ほどダメージが大きい。私も全然知らない土地でスマホの充電が切れてしまった時の絶望感は何となく理解できる。

 しかし、デート中にスマホをなくして支払いができないのは、天国から地獄へ真っ逆さまだと思うのはモテない男の考えだろうか。私が女の人とデートした時に支払いができなくなるなんて失態をやらかしたら、もう2度目のデートはない。それどころかデートで何をしゃべったかによっていつの間にか2度目のデートはなくなったという経験は何度も経験している。デートの時間を間違えてしまった時には、笑って「大丈夫ですよ」と言ってくれるけど、まず2度目はない。モテない男はデートには細心の注意を払い、スマホで支払いができないなんてあってはならないミスなのだ。

 それなのにあの美容師はそれを平然とやってしまう。(偏見だが)まさにヒモ男のやることではないか。そうやって女に支払いをさせて、ヒモ男を量産させるのだろう。

 こうやって純子に寄り添い、Z世代の美容師を偏見で見てしまっている。これは思い切りクドカンワールドの術中にハマっているとしか言いようがない。昭和の17歳の純子にいつの間にか感情移入させて、ローマの休日の気分に浸りながらもZ世代に舌打ちしてしまう。クドカンの掌で転がされれるとしか思えない。

 伏線は回収しなくてはダメですか?

 7話は小川市郎がちょっと引いた立ち位置であり、表のスポットライトが当たるのが純子なら、裏のスポットライトはエモケンこと江面賢太郎という脚本家だ。エモケンはかつては時代を席巻したヒットメーカーだったが、過去の栄光にすがり昔話をしているので、すっかりオワコンとされている。かつて視聴者としてエモケンドラマを楽しんでいたディレクターのファーストサマーウイカも仕事でエモケンと打ち合わせをしたら、過去の武勇伝ばかりでちっとも話が進まないという。それより下の世代にとってはエモケンは完全に過去の人だ。

 エモケンも強がってはいるが、エゴサーチでSNSの反応を過剰に感じて動揺しているのが見て取れる。常識クイズでの純子の蛮行に刺激を受け、次回作を「17歳」をテーマに書き始めるが、どうもうまくいかないようだ。

 エモケンは締め切りを伸ばしてくれと泣きついているぐらい苦戦しているくせに口を開けばいつだって偉そうだ。こういう態度がオワコンなんだよ。

 エモケンは最終回のクライマックスを最初に考えて、そこに至るまでの伏線を最終回で一気に回収していくことを理想としているらしい。そのため、クライマックスをイメージできてもそこに至るまでの伏線を考えるのがなかなか難しい。結果として1話がまとまらないジレンマにはまっている。

 そんなエモケンを見て小川市郎は、「最終回が決まって伏線をきれいに回収しなきゃいけないなんて傲慢だ」と言い放つ。最終回が決まらなくて話が採っ散らかっているなんて最高じゃねえかという。市郎も純子も震災で亡くなり令和の時代には生きていないという結末を知ってしまっている。だからこそ「最終回がわからないなんて最高じゃねーか」という言葉が深い意味を持つ。

 かたや純子とデートしていた岡田将生は「ドラマは通してみたことがない」、「その時見た話が良い話ならいいドラマ」と言い放つ。いつしか、小川親子にシンパシーを感じ始めているのか、またしても「これだからZ世代は」と舌打ちしそうになる。

 こんな風に物語やドラマを語るには三者三様の考えがあるのだが、どの考え方もありなんじゃないかと思えてきた。

 デウス・エクス・マキナへの病的な敵対心

 エモケンが偉そうに語っている「1話からの伏線を最終回で見事に回収する」ことがいつしか作家の理想になっているのかもしれない。小説やドラマを見ても何気なく出てきた伏線がページを進めると見事に伏線が回収されて、クライマックスを迎えるのはある種の芸術で美しい。SNSが発達してからは、ドラマを見ながら考察や実況中継みたいな楽しみ方もあり、見事に伏線が回収されたり、予想を裏切りながらもキレイに筋が通っていれば、小説やドラマも大きな感動を生みだす。その感動は病みつきになり、また新たな作品に触れたくなる。小説家や脚本家としても一種の芸術家として、エクスタシーを感じることになるのだろう。

 一方で読者の「デウス・エクス・マキナ」の嫌悪感が一層強くなっているともいえる。「デウス・エクス・マキナ」というのは「機械仕掛けの神」で最後に登場してはすべてを決めてしまう全知全能の神だ。たとえ自然界や物理的法則にありえない出来事でも神が出てきたらなんでも成立する。いつしか物語での神の存在は禁じ手として忌み嫌われるようになった。

 そうはいっても1話から勢いにのって書いた物語もクライマックスに向けてとっ散らかり最後は神の手で強引に終わる作品もないわけではない。ブログやSNSの発達で国民一人一人が作品を表現できるようになればそんなとっ散らかった物語だってたくさん出てくる。何しろこうやって偉そうに書いている私の文章こそがとっちらかっており、オチもなく終わる文章だ。

 しかし、SNSが発達し良くも悪くも作品に対して感想を言い合う文化が生まれてしまった。そんな令和時代に「デウス・エクス・マキナ」への嫌悪感は大きくなり始めている。特に偉そうにしている奴ほど、「デウス・エクス・マキナ」に対して鬼の首を取ったかのようにたたき始める。
 
 伏線回収しなくてはダメですか? いつしか、オチのない話に不寛容になって世知辛い世の中になっている気がする。

ドラマは通してみたことがないだと(怒)これだからZ世代は

 いつしかZ世代に不寛容になってしまったのか?そういうことを言い始めている自分こそが老害であり、オワコンと化している。
 
 Z世代の映画やアニメ、ドラマを見るのに「倍速視聴」がマストとなっているようだ。聞けば重要なシーンだけみて他は倍速で見る。クライマックスだけ知ることができればよいというなら、まだわかる。中には「推し」だけ見れればそれでよいという考えもある。

 私は1978年生まれで「X世代」とか「団塊ジュニア」とか言われる。ドラマや映画を見るのに時短や倍速視聴はめったにしない。貧乏性なのか最初から最後まで等倍で見ないとすべてを味わいつくせないと考えている。ドラマを見るならワンクール欠かすことなく見るのが当たり前だ。途中だけ見て、ドラマを見た気になるなんて考えられない。まったくZ世代のやることは理解できん。

 本当にそうなのだろうか?

 私の中学高校時代に90年代ドラマにはまっていた。「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」などのドラマの時代だ。しかし、1話から最終話までどれもしっかり見ていたのかと言われればNOと言わざるを得ない。

 古い話で恐縮だが92年に「ずっとあなたが好きだった」というドラマが視聴率30パーセントを超えた。このドラマは、お見合いで結婚した女性(賀来千香子)がかつての恋人(布施博)と10年ぶりに再会して再び恋心を抱くというごく普通のドラマで正直興味が持てなかった。新ドラマの特集が改変期に必ずあるのだが、物語が面白いとか人気の女優が出演するとかではないので、はっきり言ってノーマークだ。ところがお見合いでの結婚相手があまりに面白いので、インターネットもSNSもないのに口コミでバズが起きる。そう佐野史郎が演じる冬彦さんだ。冬彦のヤバさを口コミで聞いて途中から見始めた。佐野史郎は完璧にちょい役のはずだが、主役を食ってしまって彼のドラマとなってしまった。ドラマの本筋はちゃんと理解してないけど、冬彦のヤバさをもってドラマにくぎ付けになっている。

 今のドラマはTverなどで見逃しても大丈夫だが、当時は決まった時間にテレビの前で座っていなくてはいけない。見逃したら2度ともどれないのだから、歯抜けのようにドラマを見ているのが当たり前だった。それでもその時の話を楽しんで満足することもある。実際には相棒や古畑任三郎なんかは1話完結なので、歯抜けになっても楽しめるドラマではある。一方でジェットコースタードラマというジャンルもあり、一話見逃したら主要キャストがいつの間にか死んでしまっている油断のならないドラマもある

 不適切にもほどがあるは高度なドラマだ

 このドラマは7話まで通して視聴してみるとタイムマシンによる考察で市郎や純子の運命や渚との関係などドラマを1話から追いかけることで考察を楽しむこともできれば、歯抜けで適当に見たとしても、昭和と令和の違いを笑い飛ばして楽しむこともできる。

 今回の純子と美容師の「ローマの休日」は箸休めとして楽しむこともできるし、1話限りの純愛物語としても楽しむこともできるだろう。しかし、じっくり通してみれば、しっかり令和を皮肉る部分も楽しめる。

 あまり触れてこなかったけど、ムッチ先輩が未来に行って瓜二つ(二役)の秋津君と対面している。これから何が起きるのかに目が離せない展開となっている。

 ドラマの楽しみ方もいろいろあっていいのではないかと改めて思うようになってきた。時を超えてスーツを私ことができたのも神回だったが、7話も神回になりえるかもしれない


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