昭和60年代のプロレス

 昭和60年代というのは、我々53年生まれの人間にとって黄金期であった。小学校にあがったばかりのころはキン肉マンが全盛期であり、それがきっかけでプロレスをなんとなく見るようになった。私が本格的に格闘技を見るようになったのは、K-1、プライドの平成初期のころからである。しかし、昭和のプロレスをリアルタイムでは見ていない私でも、いろいろと勉強していくとかなり面白いと感じられる。

 これを機に昭和60年代のプロレスをお勉強していく。ただ、昭和プロレスに手を出すということは、日本史や世界史に手を出してしまうぐらいの深い深い話に迷い込んでしまう。焦らず少しずつ勉強しながらアウトプットしていくつもりだ。

 昭和60年~63年までの昭和末期のプロレスは、長州力と前田日明が話題をさらった激動の時代と言えよう。といっても、勉強していく中で分かったことは、確かに長州力も前田日明も革命戦士や新世代のエースとして、我々の胸を打った。けど、やっぱりジャイアント馬場やアントニオ猪木の手の上で転がされていたというのが、私の解釈である

 昭和のプロレスといえば、すごく昔だと力道山とかいう声もあるでしょうけど、間違いなくジャイアント馬場とアントニオ猪木の時代である。特に昭和50年代は、もうこの二人によるプロレスの全盛期といってもいいでしょう。一方で、昭和60年代は猪木や馬場の神通力が落ちはじめ、プロレス冬の時代であり、そのころの中心が長州力と前田日明である

1985年:長州、全日本参戦

 前年あたりから、猪木の神通力が落ちはじめ、新日本内部で選手の不満が高まっている。この手の話をするには、長州の噛ませ犬発言や、タイガーマスクの話もしないといけないのだが、きりがないので今回は割愛する。だって昭和プロレスって日本の歴史と同じなんですよ。一つ取り上げたら、その前後の出来事も取り上げないといけなくなるからきりがないのです。

 そのころ、長州は新日本にいると鳴かず飛ばずで終わってしまう不安と、猪木にいいように使われている不満から、ジャパンプロレスを立ち上げて戦いの場を全日本に移す。

 長州の全日本参戦により、全日本の人気が回復するのだが、長州にはどうにも全日本の水は合わなかったようだ。長州VSジャンボ鶴田戦でも見せ場を作ることなく終わってします。何しろ馬場は長州を全く評価しておらず、使えないという結果に終わってしまった。

 一方、新日本は長州率いる維新軍の離脱により、人気の低下が危惧されたが、ブルーザー・ブロディーの引き抜き、そして前田率いるUWFとの対抗戦によって、人気を盛り返すことに成功する。

 新日本本体とUWFの戦いは、イデオロギー闘争ともよばれ、前田と猪木が一触即発の雰囲気も醸し出されたのである。

 1986年:UWF人気がブレイク

  1986年はUWFの人気がコアなプロレスファンの間でブレイクを果たす。この戦いはUWF VS 新日本本体との闘争、特に若い前田日明は絶対的なカリスマであるアントニオ猪木を公然と批判するようになる。象徴的なのは、猪木25周年の両国大会での、伝説の前田日明VSドン中矢ニールセンこの熱き名勝負があり、これに対して猪木VSレオ・スピンクス戦は凡戦に終わった。この大会から前田日明の新旧交代を印象付ける結果となる。

 しかし、真格闘王としてブレイクしながらも、前田は新日本ではいまいち人気が出ない。やっぱり格闘技よりも善悪のはっきりしたプロレスを支持しており、プロレスそのものが低迷しだすのである。

 一方、全日本に舞台を移した長州もなんとなく水に合わないまま日々を過ごすことになる。そんな中、当時の元横綱である輪島が全日本にデビュー、そのまま輪島が全日本のエースとして主役を張ることになる。

 それがきっかけで長州は完全にやる気を失い、半ば強引に新日本にカムバックすることになった

 1987年:世代闘争の不発

 長州が新日本に戻ると予想される展開は、新日本本体・UWF・長州軍の3つ巴の争いになるかと思われたが、そうはならなかった。

 長州はどうしてもブレイクし世代交代を果たしたかったようで、その年のIWGP決勝、アントニオ猪木VSマサ斉藤戦の後、長州は「世代交代だ!今しかないぞ!」と前田日明と当時の新日本の若きエース藤波との共闘を呼びかけ、猪木率いる旧世代軍との世代闘争が始まったのである。

 それにしても、長州というのは面白い。勉強しなおせばし直すほどしがないサラリーマンにとっては胸を打つ男である。

 長州は昨年強引に全日本を離脱したものだから、日テレとの契約がまだ残っている。なので、新日本の世代闘争の中心である長州をテレ朝は放送することができないのだ。テレビに放送されないなら人気が下がってしまうわけだよ。

 とどめは、猪木VSマサ斎藤戦、いわゆる「巌流島の決闘」だ。これは何のために行われたのかよくわからん。けど、これで完璧に猪木に持ってかれた。長州のぶち上げる世代闘争は完璧に尻すぼみになってしまった。

 こうして「打倒猪木」という共通の目的が失われた長州と前田は互いに反目しあうようになり、11月に事件が起こってしまう。その時は6人タッグマッチで前田が長州に後ろから顔面を蹴り上げてしまう。不意打ちでの顔面蹴りはもうあかん!!反則中の反則だ!言い逃れできない

 ということで、猪木は「プロレス道にもとる」と断罪し、前田日明を解雇してしまうのであった。

1988年:プロレス冬の時代、そして平成へ

 1988年はバブル絶頂を迎えているころなのだが、プロレス界は冬の時代を迎えることになる。何しろワールドプロレスリングが3月にゴールデンタイムから撤退してしまうのだ。

 このあたりから猪木引退が取りざたされて、翌年猪木は参院選に出馬することになる。何考えて猪木は政界に参戦するのかいまだによくわからない。彼のカリスマ性だったら当選してもおかしくない、けどそれ以上に何されるかわからない怖さもある。

 お勉強してようやくわかったのは、当時低迷していた新日本の復活には若手の活性化が不可欠、猪木には引退してもらいたいので、選手・社員一丸となって参院選の当選を応援、見事に当選し全員ハッピーとなったのである。

 こうして昭和が終わり、平成の時代を迎える。馬場猪木の時代から、闘魂三銃士を中心とした新日本、三沢をはじめとした四天王を中心とした全日本プロレスが新たな時代を作ったのである。といっても、平成のプロレスもいろいろありすぎて、ちょっと触れたら深い沼にはまるのでこの辺にしておく

 いかがでしたか?昭和のプロレスの一部分を触れてみるだけで、2500文字ぐらい使ってしまったようだ。それでもマジでほんの一部であり、しっかり語るため、日本の歴史を学ぶつもりでプロレスをお勉強していく

 ではまた

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