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くうちゃんは、パンダをも凌駕する

 「くうちゃんがね、亡くなってしまいました」

 10月12日午前12時48分、実家から電話があった。
 いつもの優しい父の声で、あまりにも残酷な報告を受ける。実家で飼っていた犬が、突然息を引き取った。



 死ぬまできっと忘れないのは、2012年5月5日の夕方のこと。私は小中高といじめられっ子で、毎晩一人で泣いていた。その日もこっそり泣こうと部屋に向かっていると、後ろからカチャカチャと足音がした。振り向けばマヌケな顔で私を見上げる子犬がいる。あまりにも可愛くておかしくて、その日は泣かずに一日を終えられた。元気なオーストラリアンシェパードの女の子が、我が家に来た日だった。名前は「くう」と名付けられた。
 好きな人に彼女がいたことを知った時、親に反抗してひどく怒られた時、浪人が決まって絶望した時。私はどんな時も一人で泣こうとしたけれど、いつの間にかそばにはくうがいた。「しょっぱ!」としか思ってなさそうな顔で、私の頬を舐めてくれた。こっちは泣くことで忙しいのに、おもちゃを咥えて遊びに誘ってきた。だから私は毎日幸せだった。絶対に笑える瞬間を、あの子はいつだってくれた。
 「お前みたいな分際で楽しく笑うな」と言われた日にも、くうの前では何度でも、ちゃんと笑えた。




 「兄弟イチのおてんば娘なんですよ」
 「かなり手がかかると思います」

 父が「この子がいいね」とくうを抱き上げた時、ブリーダーさんにそう忠告された。何度もゲージから脱走をし、ブリーダーさんを困らせていたらしい。
 くうは確かによくいたずらをした。おやつを盗み食いしたり、ゴミ箱をひっくり返したり、毛布を引きずり回したり。どれもわざと見つかるように、私たちの目の前で犯行に及ぶのだ。本当に手のかかる子だった。でももしかしたらくうも、「いつも泣いていて手のかかる子だ」って私の近くにいてくれていたのかもしれないね。


 くうが亡くなった次の日は、母の誕生日だった。姉が大学生になって実家を出てからの7年間、10月13日に家族全員が集まったことなんて一度もない。でも今年は、兄弟3人とも13日に実家へ戻ることができた。誕生日らしいことは何もできなかったけれど、母の誕生日を家族みんなで迎えられたのは久しぶりで。くうの、くうからの最後の優しさかもしれない。そう思いながら、みんなで冷え切ったくうを撫でていた。

 火葬当日。くうが火葬炉に入って扉が閉まるまで、全員で見届けたあの時。家族のあんなに泣く姿を、私は初めて見た。父が涙脆いことは知っていたけれど、肩を震わせてまで泣くことは知らなかった。母と姉、弟に至っては、まるで泣いた姿を見たことがなかった。

 その日の夜、母が呟く。

 「皆の泣き顔、今日久々にまともに見たかも」

 「確かに家族の前ではお互い泣かないよね」なんて笑うそれぞれの顔を見て、全員泣き虫だったのだと、その時にやっと知ることになった。



 くうはこれまで、何度私たちの涙を拭ってくれただろう。どれほど私たちを繋ぎ止めてくれたのだろう。私たちがお互いの前で笑っていられたのは、くうが代わりに皆の泣く姿を見守ってくれていたからだったんだろうね。
 癒しとか安らぎとかそのレベルではなく、私たち家族はきっとこの子に何度も救われ、生かされてきたのだと思う。生きることを放り投げずに今日まで来られたのは、くうの存在があってこそ。決して過言ではない。くうと出会えていなければ、13歳くらいでころっと死んでいたから。



 くうが亡くなってから今日まで、涙を流さずに過ごせた日はまだ一日もない。ふとあのマヌケ顔を思い出して、どうしようもなく会いたくなってしまう。でもいつかまた、あの子のおかげで笑える日が来るんだとも思える。11年前の、あの頃のように。
 くうとの思い出はこれからも、私たちをそっと温めてくれるはず。



 くうは元気いっぱいで明るくて、なによりも優しい子だった。



 くうちゃん、11年間本当にありがとう。
 次も私たちのもとに来るんだよ。
 絶対、また家族になろうね。

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