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不適切にもほどがある王様と私の虎に翼がカラーパープル

渋谷の階段に躓いて転んだ。心に大きなダメージを受けた。都会で転んでも、誰も優しくしてくれないよ。でも、田舎で転んだら、そもそも周りに人がいないのよ。どっちが寂しい?どっちでもいいわ。痛い🍣

王様と私というミュージカルを見ながら、「今年本当こういう話たくさん見てるよなー」と思った。

たまたまなのかもしれないが、今年に入って、「カラーパープル(人種差別や性差別に立ち向かう女性たちの話)」「不適切ですがなにか(令和と昭和の価値観を比較する中でジェンダーに言及)」「虎に翼(女性初の女性弁護士の生い立ちを描く中で男性優位の社会を具に描写)」と続いている。

自分も仕事柄ダイバーシティやインクルージョンに関わるので、こういう話題を取り上げるエンターテイメントを興味深く捉えている。

普段からセンセーショナリズムに対して疑問を持っているので数年前のMeeTooは理解はできるが、受け入れたり賛同したりするのは別だなって考えていた。

アメリカではこの流れがエンターテイメントの中にも深く入り込んでいき、アカデミー賞授賞式や実写リメイク作品にもその傾向が色濃く取り入れられた。

ディズニー作品が好きなのだが、アラジンの実写版でジャスミン姫のソロ曲が追加されたのだが、この「スピーチレス」という歌が、その世間の荒波の中で生まれた雰囲気が、歌が主張したいメッセージと物語や舞台を軽視しているように思われた。そもそもの設定や描写に「賢いけど世間知らず」というような描写があることから、舞台装置そのものを変えなければ、その歌って説得力持たないよね。Gleeとかで流れている曲だったら納得したかもしれない。場面だけ切り抜けば良い歌だし。登場させる作品が違うのではないかな。

みたいな。

そういう無理矢理な姿勢がMeeTooの頃には強く、「どうしてそういうことが起こったのか」であるとか「ハリウッドで黒人がどう扱われていたのか」という事情を知らなかったら、この運動をきっかけに、そういう主張をする人を嫌いになっていたかもしれない。

しかし、知っているので。教えてもらったので。「こういう事情があるんだろうな」という部分を汲みながら自分なりに考えて、それらの主張に向き合ったり、相談にのったりしてきた。

そんな中、今年の「女性」をテーマにした作品群を受けて、「昔からある作品(カラーパープルや王様と私、マイフェアレディ―など)の説得力が増し、作品の在り方が変わり、今年始まった作品(虎に翼、不適切ですがなにか)でどの様にそれらの歴史や文化的背景を取り上げるのか、何を伝えるのかの表現が洗練されてきたのを目の当たりにした」のかな。

アラジンの実写版やその頃に作られたいくつかの作品に比べて受け入れやすいなーと思った。

先日、Tokyo Rainbow Prideに対する批判について、こういうnoteを書いた。

SNSでセンセーショナリズムを使わないと支持されないコンテンツって時代遅れじゃない?

TRPへの批判から作法を考えたりする

この意見に至ったのは、強すぎるMeetoo運動に対して疑問を感じたり、受け入れられない人たちを目の当たりにしてきたからなのかもしれない。悪いことをしたら裁かれるべきだとは思う。しかし、それ以上に分断を引き起こしたり、失敗してしまった人を赦さないというところまで及んでしまうと、危うさを感じているし、受け入れ難さが増していく。

今回主題に含めた4つの作品は、インパクトのあるシーンや誇張や脚色が含まれているものの、衝撃的すぎる言動や演出ではなく、物語やエンターテイメントを通して、「それがいかに間違っていたのか」「今の価値観とどのように異なっているのか」を伝えていると思う。とても受け入れやすい。

話は変わるが、最近、嫌いな言葉の中に「ゴミノート」というものが追加された。これはTwitter(X)の取り組みである「コミュニティノート」の蔑称。「コミュニティノート」はデマや誤解を招くツイートに対し、不特定多数のボランティアメンバーが正しい情報(ソース)を追記したり、その情報の客観性を評価したりする機能で、反科学やオカルト、陰謀論のツイートに追加されやすい傾向にある。

コミュニティノートが追加されたツイートをしたアカウントが、「このコミュニティノートに書いてあることこそが間違っている」と主張し、生まれた言葉が「ゴミノート」なんだと思うんだけど、その言葉の誕生のいきさつをろくに調べもせず、また、自分たちの主張と反する情報を雑に扱う姿勢も見て取れるので、そういう旧時代的な考え方では、特に若い層からは̪シカトされていくんだろうなーなんて思いながら、そっとブロックする。

「コミュニティノート」を「ゴミノート」と名付けるようなセンスで、どうして自分の主張が受け入れられると思っているのか理解できない。

これに近い現象に「朝ドラ反省会」というハッシュタグがあるんだけど、まあ似たような構造だな、と。朝ドラで不快になったことを言い合って「もやる」だの「許せない」だの話しているを見て、悪い言霊だな―って。こちらはそんなに支持を求めているものではないと思うんだけど、「すぐに物事を嫌いになるトレーニングをしている」ような印象を持っているので、やはりこちらもなるべく近寄らないようにしている。

今年はなぜか女性を取り巻く環境をベースにしたエンターテイメントが目立っているような印象を持っているが、分断を前提としたコミュニケーションではなく、比較したり、学んだり、立ち向かうにしてもその背景をしっかり深堀して描写している。その方が作品としても成立しやすく、安全に主張を通せるのだろう。こっちの方が今っぽいよね。同じ主張していても印象が違うので、賛同するかどうかに影響していくよね。

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