キエちゃん


今年で還暦を迎える私の母は、昔から、自分の古風な名前を気にしていた。仮に、「キエ」さんとしようか。片仮名2文字で、語呂にもちょっと違和感がある。そういう名前なのだ。


母の実家は北関東の、山と田んぼに囲まれた小さな村落にある。電車はおろかバス停すら見かけないような、本当の田舎だ。毎年お盆と正月には、母と姉と私の3人で母の実家に里帰りするのが、私たち家族の恒例行事だった。


母の実家は村の端にあって、すぐ隣には小さな山があった。そしてその山の上には、村だけでなく近隣一帯の人たちがお墓参りに来る、広い墓地があった。だから普段はサワガニかカエルくらいしか通らない家の前も、お盆の時期だけは1日5台くらいの車が通ったし、うちの車が停まっているのを見て、母の古い知り合いが挨拶しに来ることもよくあった。




あの日、私は確か小学3年生くらいで、母と姉と3人で庭遊びをしていた。ホオズキを摘んで並べたり、小川の底をさらってヒルやタニシを捕まえたりしていた。手先が器用な姉はそこらの草で小舟やアクセサリーを作ったりしていたし、母は私たちのすることを面白がりながら眺めていた。長閑な時間だった。


家の前を、1台の車が通った。車種は分からないがシルバーの、5人乗りくらいの車だった。お墓参りの人だろう、と私たちは気にせず遊びを続けていたが、その車は少し行ったところで一旦止まると、今度はバックで、家の前まで戻ってきた。


知らない車だった。親戚の車じゃないし、毎年挨拶に来る人たちの車でもない。

一体誰だろう、と様子を見ていると、車の中から、一人の男の人が出てきた。中年の、優しそうな顔の人だった。ニコニコと嬉しそうに笑いながら、彼はこちらに手を振っていた。


「キエちゃん!」


名前を呼ばれて、母は一瞬きょとんとしていたが、すぐに「ああ!久しぶり!」と思い出した様子で、男の人の方に歩いて行った。私と姉も、それについて行った。




その人は、母の中学時代の同級生ということだった。母が私と姉を紹介すると、男の人は姉の顔を見て驚いた顔をした。


「わあ! キエちゃんにそっくりだね!」

その言葉を聞いて、私は内心で舌打ちをした。

若い頃は美人だった(らしい)母は地元の人気者で、その母の若い頃によく似ている姉も、親戚や古い知り合いの間ではいつも人気者だった。私も十分に可愛がられてはいたが、姉の目元や口元から次々と花開く思い出話にはどうしても入っていけず、ほったらかしにされるこの時間が私は好きではなかった。


最初の挨拶以降は見向きもされず、つまらなくなった私は、男の人が乗ってきた車を眺め回した。特に面白みのない自家用車だった。後ろのガラスが黒くなっていて、車の中が見えづらくなっていた。

不躾な子どもだった私は、どうにかして車の中を覗けないかと、少し離れた位置からじっと目を凝らした。

するとそのとき、スモークガラスの向こう側、運転席のうしろの座席に、私と同じくらいの女の子がいることに初めて気が付いた。


私は驚いた。男の人は一人で車から降りてきたので、車内に誰かがいると思わなかったのだ。

髪が長くて、Tシャツを着ている。それくらいしかわからなかった。スモークガラスが光を強く反射するせいで、彼女がこちらを見ているのかどうかさえ曖昧だった。私は、人がいることに気付かずジロジロ見てしまったのが恥ずかしくて、照れ隠しに小さく手を振った。

彼女は反応しなかった。


不意に、姉が私の手を掴んだ。不作法を咎められたのかと思って慌てて姿勢を正したが、姉は私の方を見ず、男の人に軽く会釈だけすると、私の手を引いて庭へ戻った。どうせ退屈していたので、庭に戻れるのは嬉しかったが、愛想の良い姉が自分から客の側を離れるのが珍しくて、少しだけ不思議に思った。

途中で車をふり返ったが、もう黒いガラスはこちら側の景色を反射するばかりで、中の様子は全く見えなくなっていた。




母と男の人の立ち話は長く続いていた。私と姉は庭遊びの続きをしながら様子を見ていたが、どうやら母は何度か話を切り上げて戻ろうとしているのに、男の人がまた新しい話題を出して引き留めているようだった。


単純に、また遊んでほしかったので、私は母を連れ戻そうと再び二人のところへ行こうとした。しかし、怖い顔をした姉に止められて、それは叶わなかった。


「行っちゃダメ。ここにいな」


「でもあの人、話長いよ。 ウザい」


覚えたばかりの語彙で大人を罵る私に、姉は首を振った。咎める意味では無かった。


「あの人、なんか変。 怖いよ」






もうしばらくして、母はやっと私たちのところに戻ってきた。男の人も車に戻り、山の上の墓地へと向かって行った。


私は母も交えて遊びを再開しようとしたが、母は私と姉に、「家の中へ戻ろう」と促した。 理由を訊くと、母は「疲れたから」と答えた。確かに、母は妙に元気を失くしている様子だった。それならお母さんだけ戻っていれば、と言っても、母は顔色の優れないまま、かたくなに私たちを家に連れ戻そうとした。

姉は素直に従おうとしたが、私は嫌がった。スマホはおろか携帯電話すらろくに普及していなかった当時、ゲームも漫画もない田舎の家の中で過ごすのは、あまりに退屈だったからだ。


しばらく放置されて不機嫌だったせいで、いつもより頑固に駄々を捏ねる私を見て、母はため息をついた。何かを諦めたような顔をしていた。


「今の人、学生のときにお母さんに告白してくれた人でね。 そのときはちゃんと断ったんだけど……」


 母は言いにくそうに、言いたくなさそうに、こう続けた。





「 うしろの座席に、娘さんがいたでしょ? その子に『雪絵』って名前をつけて、キエちゃんって呼んでるみたいなの」




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