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桜の散る頃に

 今日、卒業する。
 誰かと言えば私がよく知る人でもう19年の付き合いになる。
 そんな人が今日、人生の節目を迎える。
 門出、と言えば聞こえはいいがこれから今までの自分ではない新しい自分を見つけるための壮大な旅に出る。
 酷く荒く、時には耐えられないと思う荒波に揉まれることもあるだろう。
 そんなことは分かっているのだろうが、分かっていると本人から聞いたわけでもない。
 ただ、打ち明けられた時の目は真っ直ぐでただひたすらに前を向いていた。
 俯くこともなく、何にも動じない決意だけがその黒く澄んだ瞳から感じられたのだ。
 「行ってきます!」
 いつものように、天に広がる青い空の如く澄み切ったその声を聞いてどこか安心した、変に気張ってるんじゃないかとこちらが今朝を迎えるまで不安だったのだ。
 迷い雲一つない、そんな姿を横目で見送る。
 こちらもいつも通り新聞の朝刊に目を通すふりをしながら、おう、とだけ答える。
 いつもは鼻をくすぐる心地よいコーヒーの香りが、なんだか目をくすぐるようで手に持ったマグカップが小刻みに震え、新聞の文字が滲む。
 「食器片付かないんだから早く済ましてよね」
 いつも通り小言を言う妻の言葉も少し震えているような気がした。
 もう済むさ、精一杯の強がりで開いた口を塞ぐように食パンを詰め込む。
 私の好みではないピンク色のネクタイを整えて、いつものように家を出る。
 いつものように家を出て、いつものように駅に行き、いつものようにいつもの場所へ。
 何度繰り返したか分からないこの日常が、今日に限ってやけに淡く彩られているような気がした。

ーーーーーー

 それは、突然だった。
 いつものようにSNSをボーッと眺めダラダラと無為に時間を過ごす、安寧たる日常の中に降り注いできた。
 隕石が地球に衝突します、だとか、あと数分で核ミサイルが日本に着弾します、だとか、そういった類の非日常的なニュースが日常の中にドンッと降ってきた。
 そのニュースは、どこか見慣れたタイトルから始まり、ただ淡々と綴られていた。
 ご報告。
 この3文字のタイトルを見たときは、自分にその数秒後に訪れる核爆発のような衝撃を予見できるはずもなく、まだ知ることもなかった。

 グループメンバー卒業につきまして。

 一体、誰がいつ卒業するというのだろう。

 その名前を見たとき、俺は、現実がフワッと浮かんだような気がして自分の体がここにあるのだろうかと疑いたくなるような、そんな感覚に陥った。
 この現実というものは厄介で、すぐに後を追いかけ、そして追いつき人間という生き物の性なのか認知行動に移る。
 同じグループを追いかけている知り合い達の反応、卒業メンバー本人による呟き、そして運営のお知らせ。
一つ一つを、見たくない言葉を、それぞれ咀嚼するように見ていく。
 味わいたくなかった味が全身に広がり、やがて収束する。
 これは本当なのだろうか、そんな問いすら嘲笑うかのように脳に焼き付いた文面がほくそ笑んでいるような、そんな空間から逃避するように自然とフラッシュバックしていた。
 今までのライブ、話したこと、一つ一つが走馬灯のように脳内を駆け巡り、同時にそれは一つの大きな波となって自分の中に浸食し始める。
 侵食した波は感情となり、やがて溢れ始める。
 溢れた一粒一粒に何かが詰まっているような気がして、でもそれは何かは分からない。
 ただ溢れて流れていく。
 そして侵食した波はやがて穏やかになり、ゆっくりと引いていく。
 「行こう」
 静かに、ゆっくりと呟いた。
 彼女が最後にメンバーとして立つ舞台、そこに行こう。
 いつもはただ漠然と、自分がいたその場所へ確かな目的を持って。

ーーーーーーーーーー

 彼女から打ち明けられたときは、驚きよりも納得の方が大きかったように思う。
 レッスンが終わった後、いつも通り誰かを誘ってご飯にでも行こうかとそんなことを考えながら帰り支度をしていた。
 「みんなに話したいことがあるんだ」
 その場にいたメンバーみんなが怪訝な顔をして改まってどうしちゃったの?と半ばからかい、もう半ばはある程度次の言葉に対しての覚悟だったり、そういったものがその場の空気に流れ込んでいた。
 「私、グループ卒業することにしたんだ。何も相談しないで勝手だけど、ごめん」
 そう言って頭を下げる彼女に、どこか冷静な自分もいて不思議な感覚だった。
 しかし、そんな自分はすぐに崩れていなくなる。
 2年もの間一緒に過ごしてきた時間が、どっと流れ込んできたのだ。
 流れ込んできたそれは濁流の如く押し寄せ、冷静という堤防をあっという間に飲み込んだ。
 「そんな話し……聞いてないけど?」
 しばしの沈黙の後やっと言葉を紡ぎ出したのはリーダーだった。
 「ごめん……」
 一呼吸置いて、彼女が俯きながらまた頭をぺこりと下げる。
 「ごめんじゃなくて……理由が知りたい」
 厳しい口調だったが、その中に怒りは混じっていないように感じられた。
 何か自分を納得させようと、足掻く自分を落ち着かせようとしているような、焦りと緊張の混じった口調のようだった。
 「今までの活動を通して知らなかった自分と会って……これからを考えた時にまた知らない自分に会いたくなった……ような」
 詰まりながらもゆっくりと、選ばれながら響いた音は言葉になりその場にいる一人一人の心に染みていく。
 「ファンの人達は……どう思うかな……」
 初めてリーダー以外のメンバーが口を開いた。
 俯きながら力無く放たれたその言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げて、そして再び俯くと両手で顔を覆い、涙をぬぐい始めた。
 ファンの人達、その存在が今改めて自分という存在に突きつけられたかのような、そんな気持ちに私自身もさせられた。
 静寂の中で響く嗚咽に私はなんて答えたらいいのだろう。
 頭の中で巡る言葉それぞれが陳腐で稚拙なような気がして、何も言うことができなかった。
 「とりあえず、今日は帰ろうか」
 リーダーが彼女の肩を抱いて宥め、出入り口の方に向かおうとした時、彼女が
 「私の卒業、次のイベントだって……」
 と声を震わせながら確かに伝えた。
 次のイベント……もう1ヶ月もないじゃん。
 「分かった、もう分かったから……あとで落ち着いた時にまたみんなで話そ?」
 リーダーの発した言葉が耳に入るも、どこか意識の中で浮かびながらハッキリと形が見えないような、そんな感覚になり、彼女が去っていく姿をただ呆然と眺めることしかできなかった。

ーーーーーーーー

 激動の日々だった。
 芸能活動をしたいと言った時、父は反対して母はそっと背中を押してくれた。
 事務所に所属が決まった時も父は最後まで反対していて、条件は大学の志望校のランクを落とさないこと、ただ一つだけだったけどその一つを維持するのに大変な苦労をした。
 裏を返せば成績を落とすな、と言われたことに等しく学校終わりにレッスンに行き、レッスンが終わったら家で勉強。
 土日もレッスンや仕事で友達と遊ぶ時間なんてこれっぽっちもなかった。
 でも、それでも私はあの場所に立ちたい、そう思わせてくれるような熱があそこにはあって、その熱を体全体で感じるたびに言葉には代え難いものを得ることができていた。
 その瞬間に病みつきになっていたと言っても過言ではなく、苦手だったダンスも、歌も、全部メンバー達に負けないよう血を吐く思いで練習して形にしていった。
 でも、同時にこれから先私はどうなりたいんだろう、どういう自分になっていくのだろう、そんなことがふと頭によぎるようになっていった。
 最初はそんなことを考えている時間はないと目の前のレッスンや仕事、勉強に邁進していたけど、いやでも頭から離れない。
 これは自分の問題だ、自分で答えを出さなきゃいけない、だから親にも友達にもメンバーにもファンにも事務所の人にも打ち明けずに考えて悩んで、そんな毎日にどこか疲れてしまったのかもしれない。
 距離を置こう。
 それが私のした決断だった。
 それからの日々はどこか自分ではない自分があの場所に立っているような気がして、自分じゃない誰かが歌って踊っているような、そんな日々で卒業公演が決まった時はどこか安堵する自分もいた。
 メンバーに自分の気持ちを打ち明けた日、やっぱり反対された。
 家族に打ち明けた時、父はそうか、と一言だけ言って母はもう少しやってみたらどうかと言ってくれた。
 でも家族やメンバーは私の気持ちや考えを、言葉にするのが下手な私の話を聞いてちゃんと向き合ってくれた。
 メンバーとは時には衝突して、でも本気で私のことを考えてくれているのが分かって嬉しくて、ここを卒業するのは嫌だな、とちょっぴり思ったりもした。本当に家族のような、そんな存在なんだなって最後の最後になって気づかされてしまったのだ。
 この公演までの日々、私はずっと支えられてきた。
 出会ってくれた人に全てを伝えたい。
 感謝の言葉、自分の気持ち、そして我儘を受け入れてくれたことへの申し訳なさ。
 この幕が上がれば私のこのグループでのラストステージが始まる。
 このメンバー達と一緒にやる円陣もこれで最後。
 「最後の掛け声、やってくれない?」
 リーダーが円陣を組む前に提案してくれた。
 私は、その想いに応えなくちゃいけないと言葉にするよりも力強く頷いた。
 「じゃあ!いくよ!せーの!」
 今までで1番大きな声で、このステージの向こうにいる一人一人に聞こえるように、私は心の底から叫んだ。
 幕が上がる、終わりと始まりを迎える幕が。
 さあ行こう、あの場所へ。
 私を包む歓声が、熱を帯びて待っている。

ーーーーー

 季節外れの桜が一輪、そこに咲いている。
 最後の花はスッと青空に向いて力強く咲き誇っていた。
 散る前の刹那の美しさではなく、これからの未来を目指して咲く強い美しさだ。
 その美しい彩りを誰かに見ていてほしい、鮮やかに咲いた花は誰かを魅了し、やがてはその人の心に美しさを知った豊かさを与える。
 その桜はきっと散ることなく、永遠に咲き続ける。
 ひたすら天に広がる青一点の空を目指して。


完。

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