鬼ごっこが苦手

日本は同調国家と言われることがあるが、私にも多数派に同調してしまいやすい部分は多少あると思う。小学校低学年の頃、放課後は同級生のだいたいいつも同じメンバーと一緒に遊んでいたのだが、そのときの私にはたびたび同調圧力に苦しみ緊張するタイミングがあった。それは、「鬼ごっこをやろう」という雰囲気が流れるときだ。
なぜ緊張するかというと、私は鬼ごっこが大嫌いだからだ。                   
今の私ならいくら仲のいい友だちに「鬼ごっこをやろう」と言われようがそれに同調することはなくきっぱりと「鬼ごっこはどうしてもやりたくない」と正直に伝えて絶対に鬼ごっこに参加しないが、小学校低学年の私はみんな賛成なのに一人だけ遊びに参加しないという発想は思いつかなかったし、少し渋っている私を必死に説得しようとする友達を振り払うことは出来なかった。鬼ごっこくらい少しは我慢してやれば良いと思う人がもしかしたらいるかもしれないが、私にとって少しどころじゃない苦痛が鬼ごっこにはあり、どうしてもやりたくなかったのを信じて欲しい。

子どものコミュニティというのは大人よりももっと 複雑で繊細であるときがあると思う。鬼ごっこに誘ってくる友達は「一人をさし置いて他のメンバーだけで勝手に鬼ごっこは出来ない」と私に気を使ってくれているのだろうが、鬼ごっこ以外の遊びで手を打つという柔軟さがない。私も含めまだ幼かったからかもしれないがどうしても彼らは鬼ごっこに執着するのだ。

彼らが私を鬼ごっこに参加させるための口説き文句はいくらかあるが、そのどれもおかしなものばかりだ。

友「手加減するからさ」。

いや手加減なんてしたら誰も楽しくない。手加減されて無理にやってる私も手加減する友人側も誰も楽しくない。

「鬼ごっこ」っていう遊びは逃げる人を追いかけ、追う人から逃げる遊びでその時の緊張感が醍醐味だとおもっていたのだが、手加減なんて器用なこと出来きるわけない。

友「鬼にならないようにしてあげるからさ」

それはもう鬼ごっこじゃない。私だけ違う遊びやらされる。

鬼ごっこの何が嫌かというと、……。いや。

単純に私が鬼ごっこに向いてない。

鬼ごっこを楽しいと思うには「走る」こと自体に楽しさを見出さなくてはいけない。それが難しい。適度なジョギングは気持ちの良い汗をかけるかもしれないが、鬼ごっこは違う。鬼に見つかっている間はずっと逃げな続けなければならない。それも全力疾走でないと捕まってしまう。鬼も追いかけている間は全力で追いかけないと捕まえるチャンスを逃してしまう。つまり、鬼ごっこは、全力疾走でのゴールの無い長距離走なのだ。

きつすぎるだろ。
だから私は鬼ごっこをやりたくない。鬼側になったとしても逃げる側になったとしても全然楽しめない。
例えば学校のグラウンドで友達と鬼ごっこをしている私を、通りがかった大人が見たとする。そしてその大人が楽しく遊んでいると勘違いし、それを微笑ましく思っているとしたら、なんて悔しいことか。その人が見ている実際の鬼ごっこの当事者である私は本当は苦しんでいるというのに!

たまに地元の小学校の近くを通ると子供たちが鬼ごっこや遊具を使った遊びをしているのを見かける。私はその小学生たちを見て微笑ましいとは思わない。
彼らの中にはやりたくもない遊びに付き合わされて苦しんでいる子がいるかもしれない。あの子供たちは本当に鬼ごっこを楽しんでいるのかどうか気になるところである。




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