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友のこと。(僕のこと。III)

最近、また濁流の如き勢いでnote書き殴りおって、その穢れた手で何がしたいと思われているでしょうね

期末が近づいてきて、暇なときはトコトン暇になってそうじゃないときは馬車馬で

そのどちらともなく雑多で空虚な社会に苛まれ続けた結果、ここにやって来て脳内の翻訳家に従事しているわけです

世紀末でないだけ、未だ、生きてやろうと思うけど

毎回「これを書くんだ」とも思わず、なんとなくで指を動かして、止めて、また動かしてを繰り返してるだけですが

珍しいこともあるもんですね

今日は、明確に、これを書こうから動き出しています

それでは覚悟して僕を見ててください

──僕の友がここではないどこかへ行った話


これは小学校二年の時のお話です

僕には小学校入学から仲良しの友がいました

当時は親友とかの定義が自分の中で確立されていなかったから、そうも呼んでなかったし思ってなかったけど

いま思えば、きっと親友だったんだろうな、と

このころの我々と言えば、ポケモンが空前絶後、流行の最先端を貫いていたから

朝から晩までずっとポケモンの話して

でも、動かないとやってらんない子らの性があるから鬼ごっことかドロケイは中休みも昼休みも力尽きるまでやって

給食当番は一緒に重い荷物運びながら、時にはカラフルな階段にカレー零したりして怒られながら、学校をやりすごし

へばって家まで帰ったら、また公園に集まって、ポケモンバトルが幕開け

新作の発売日が決まれば、一緒にお年玉を抱えて怯えながら予約しに行って

当時ポケットモンスターブラック・ホワイトの発売初日には、一緒に近くのコジマに取りに行って

お互い家に走って帰り、クリアまでタイムトライアルで競い合った

とりあえずチャンピオンになるまで小学一年生らしからぬ徹夜寸前のことまでして、早くやることがお互いの好きなポケモンの話とかバトルになることを、二人して楽しんでた

「このポケモンのここがかっこいい」とかで、なんであんなに熱くなっていたのか、そんなの正直どうでもよくて

こいつと話したい、が頭を巡る血となっていたのは確かだ

親に友ができた話をしたときに二人して驚いたのが、小学校に入る前から僕らに接点があった(らしい)こと

これを伝えると、

「ぼくも昨日言われたんだけど笑笑」

ふたり笑うほかなくて、腹を抱えて笑い転げて

砂まみれで帰るのもなんだから水風船で遊んでびちゃびちゃどろどろで震えながら帰ったら、母にバチボコ怒られたのも懐かしくない思い出だ

2~3歳児だった時期、僕が自由奔放すぎて幼稚園入れることにためらっていた僕の母は、地域の児童館として開放されているスペースをよく利用していたらしい

そこで仲が良かったのが友のままんで、僕も友とすでに、物心を知る前から友(?)だったらしいのだ

LEGOで盛り上がってたらしいんだけど、さすが僕と言った感じでこれも笑える

なんという世の狭さと、僕のセンサーの完成度の高さ

そんな感じで、毎日一緒にいて、むしろいない日なんかなくて

それが当たり前だったのに

小学校二年でも同じクラスだった僕らは、まだ今と違って少々暑いくらいの初夏の六月にいた

その日は珍しく用事があったから、僕は友と校門のところで別れ、家に走り込んだ

今日の用事なんかどうでもいいから、明日なにしよう

これを考えながら、最寄りから二駅先くらいのところで、家族での買い物を疎んでいた

翌日、いつもの薄汚れた校門前に、友の姿はなかった

風邪でもひいたかな、これでレベリングしてたら明日ぶん殴ろ

くらいのことを思いながら、教室へ歩みを進めた

そう言えば、友と同じ登校班のやつに聞けばいいか

その時の僕はまだ、冗談半分で聞いてた

だって、おかしいじゃないか

昨日まで南国の風でも吹かすようにゆるり生きていた人間が、信号無視したトレーラーに轢かれて意識不明

その事実が小学二年生の同級生から告げられる、当時小学二年生の僕

自分で書いておいてなんだが、字面でもこれなんだから、その時の僕のちっぽけな脳に処理できるものなわけなくて

なんなら、いまでも無理、なんだと思う

無だし、不だし、非だ

運命とやらが存在しない事を祈った

神でも仏でも、聖なるなにかにでもない

ただ無限に広がる、虚に祈った

始業よりだいぶ遅れて、担任の先生がやってきた

本当半分が、十分になってしまった

僕は泣くことも出来ず、その一日を過ごした

自分にできる事がなんなのか、考えた末、千羽鶴を折っておくることにした、クラスを巻き込んででも

今なら、そんな相手のことを考えずに雑紙を大量に生産する工場制手工業なぞしてたまるものか、と思う

しかし、あのころの僕にできることと言えば、ポケモン以外で僕とあいつが好きで、得意に思えてた折紙くらいしかなかったし、やわな豆腐頭じゃ思いつかなかった

本当の本当に、三日三晩折り続けた千羽鶴は僕らの手紙を添えて届けられた

どれだけの時間が経っていたかは、もう覚えていないが、一週間くらい経ってあいつは消えた

僕の元から、僕の知るあいつは、いなくなったんだ

意識不明の状態が三日か四日か続いていたんだっけか

あいつは記憶が不鮮明なまま、どこかずっと遠くの方にいて

だから、帰ってきたころにはシュレッダーにかけた端々しか持たない、自分が何者かを辛うじて知っているだけの何者かになっていた

その時、僕は世のすべては突然この手から離れることを知り、消えてなくなる泡だと知った

僕はもとから熱さとか痛みとか苦しみとか、悲しいとか辛いとかの感情も含めて疎い

この時から疎いよりも、それらの感情から目を逸らす術を身につけてしまった

その方が、なくなった時に自分を護れると知ったから

自然とそれを続けてたせいで、本当に辛くても苦しくてもほぼ何も感じなくなってて、あとで蕁麻疹とかの体調不良として顕現して初めて理解するようになっていた

それらの感情を超えた、苛立ちとか憎しみとか、反骨精神には磨きがかかっていた

何者かとなったあとも、友だったものと、になった

僕を下の名で呼んだ口はなく、舌の上には苗字しか転がれなくなっていた

これがいかに小学生児童に刺さるものであったか

想像できる人は僕より凄まじいです、後ろの扉からおかえりなさい

祖父がどこかへ行ったときも、親族一同泣いている中、泣きたかったが泣けなかった

トイレで独りになると嗚咽に溺れ、嘔吐を続け、でも出る頃にはケロッと

葬式やなんやは、こんな感じだった

みんなが泣くなら、僕まで泣いたら、僕が祖父ならたまったもんじゃないねの気持ちで

正直、ここから大学受験は諦めようかとも思った

でも、それを諦めだしたら、負けな気がして走り続けた

転んだ

それでも涙は出なかった、ふりをした

親に泣くのを見せたところで、何も変わらないし、誰も救われないし、無意味な涙を思うとそれができなかった

独り、机上の遺物を眺めて、掻き集めて枕にしては寝たり泣いたりの繰り返し

「助かるのも救われるのも自分勝手で、誰かが助けても救ってもくれない」

の精神を植え付けられてる僕だが、
(植え付けたのも僕だが)

「誰かをきっかけに、自分勝手に助かったり救われたりすることはある」

の自論展開をしている
(精神も自論なのだが)

久々に友人類と遊び明かす日々が、僕を救ってくれた

友人類の言葉は、すきだ

僕が友人類と呼ぶだけあって、やっぱり、最高だ

言葉とは、友とは、信じる、とはなにかを心得ていて

その度に、自分が与えられてばかりの非人間に思えて、苦しくなって突き放したくもなる

こんな素晴らしい人間どもは、僕の元にいてはならないんだ一瞬たりとも

これを思うことしかできない日もある

そんな感じの面倒な僕でも、一緒に死なないでくれてありがとう

僕の言葉もなんもかんも、無邪気に軽薄だなって思ってくれてるか知らないけど、ありがとう

僕の伝えたいことは伝わらないから、伝えてないのと変わらない、から

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