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vol.2|創業者、木下美智子の化粧品

iLabという化粧品を語る上で、創業者である木下美智子(以下、彼女)のことを語る必要がある。彼女がどんな人であり、どんな人に向けてこの化粧品をつくったか。それを知ってもらう必要がある。彼女がこの化粧品に込めた想いや、その商品に対する情熱を残されたものは伝えなければならない。簡単に化粧品ができる今だからこそ、これだけのコンセプトを込めたスキンケアを語らなくてはいけない。だって、このスキンケアを創ったのは、今から20年も前。今よりもずっと前の話だから。

木下美智子のプロデューサー「関根光致子」時代
前回のvol.1の投稿にあった写真で彼女の名前が違うことに気が付いた人はどれくらいいただろう。

創業者、木下美智子が化粧品の事業を手掛ける前の話をもう少しここに語っておきたい。前回の写真にあった「関根光致子」の「関根」は彼女の旧姓で、彼女は東京・神田の材木問屋の3人兄弟の末っ子。兄、姉、そして自分という立場で、東大卒で研究者の兄と当時では珍しい東京女子大卒の姉を持つ末っ子だった。彼女に出会った時は、特に兄の話はよく出ていた。兄の悪口を言っていても、どこかで自慢の尊敬する兄だったに違いない話しぶりで、彼女がどこまでコンプレックスに思っていたかはわからないが、自分だけが大学に進学していないことを兄弟の話の中では強調していた。

ヨーロッパで音楽の開拓
私は現在40歳になる。私が社会人になったタイミングでは、大学進学率が確か80%を超えていた。大学に行くのが普通の時代だから、彼女の時代ではそれだけ大学やましてや女性が大学に行くということは稀だったのか、姉のことは控えめに自慢をしている雰囲気もあったし、自慢の兄弟であったのには違いない。「関根光致子」の「光致子」は、本名は「美智子」と書くので、なぜこのような改名があったかというと、彼女は音楽プロデューサーをしていた時代がある。本名でいけなかったわけではないが、当時関わった人で改名をすすめられて、変えたことは聞いた。自分の中にある何かと、その改名もぴったりはまった何かが彼女には感じれたのだろう。

彼女の携わった大きな仕事には「黒猫のタンゴ」「バーバパパ」「カリメロ」など、ヨーロッパで買い付けた楽曲やアニメーションを日本で展開した。音楽の買い付けや日本でのプロデュースだけではなく、日本での制作アニメ、企画プロデュースも手掛け活動の範囲をどんどん広げていた。その中心にあったのは、小さい頃の戦争、疎開体験が繋がっているように思える。神田生まれの彼女も当然、戦争が激しくなり田舎に疎開した。空襲や爆撃にはあわなかったけれど、大人だからという理由だけで大人が平気でこどもを騙す姿を疎開先で目の当たりした。こどもの配給分、食料を平気で奪う大人。彼女はその記憶がとても残っていて、ずるい大人、公平性のないことをとても嫌っていた。そういう大人にだけはならないという信念や、道徳観が彼女のクリエイティブ、企画プロデュースの基礎にあるように思う。まだヨーロッパに行くのに、片道40時間近くかかる時代、飛行機が一般の人が乗れる乗り物ではない時代に海を渡り、その鋭い感覚を活かした仕事をみつけ活動していた人である。当時の日本からヨーロッパへの飛行機には、日本人で女性が乗るということはとても珍しいことだったらしく、当時は“ファッションデザイナー”ぐらいだったそう。彼女も「デザイナーですか?」とよく聞かれたと嬉しそうに話していた。

その音楽の仕事を通じて、映画音楽をしていた夫になる木下忠司と出会い、子供だけではなく大人に向けた道徳アニメとして「赤い鳥のこころ」というアニメシリーズを手掛け、その中の「天までとどけ」という作品で、1979年に国際的な賞も受賞した。

「赤い鳥のこころ」はこちらにもっと詳細が書かれています。https://middle-edge.jp/articles/bmd2U

彼女がそんな音楽や映画の世界からぱったりやめて化粧品事業に没頭したのは、ヘルシンキ・フォーミュラという当時アメリカで発売されていたヘアケア商品の開発者でもある、ハル・レイダーマン氏に出会い、彼が手掛けている画期的なコンディショナー&シャンプーに魅了されたのだった。


10年経ったら、何かを変える
彼女は思い切りのいい人だった。中途半端が嫌いな人だった。興味を示したモノやコトに対する集中力はすごかった。他人から得るのではなく、自ら知り、触れて感覚を確かめ、人が驚くスピードで前に進む人だった。

誰にも負けない感性と企画力を持った人が、ヘルシンキ・フォーミュラという商品に出会い、彼女がヘアケアに求めるフィロソフィーがそれにはあり、彼女はヘルシンキ・フォーミュラというヘアケア商品を日本で展開することを決めて前に進んだ。そうした背景にはもう一つ彼女から教えてもらったことがある。

「私は10年、同じ仕事をしたらまったく違うことをやると決めているの。それは、10年という期間は人によっては短すぎるという人がいるけれど、10年という区切りでしてきたのは、10年という期間で何かが例えば成功したとする。その成功に胡坐(あぐら)をかくようになると、物事の本質が見えなくなるから。だから10年という区切りは大切にした方がいいし、10年経たずにやめてしまったものもある。ただ10年続けてやって成功したものは手放した方がいい。」と。

成功の道が見えないものは、さっさとやめるか、粘って成功するまで続けるか。そこにあるのは本質的に自分が何をしたいのか、その物事の見極めた先にあるという話だった。彼女はヘルシンキ・フォーミュラという商品に魅せられ、iLabという商品を日本で誕生させた。いよいよ、彼女がヘアケアに捉えた「本質的」なことを、vol.3で書きたいと思う。

http://ilab.tokyo/



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