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他人への興味

私は良く自分以外の大勢の人のことを他人(ヒト)と表現するが、これは他人(タニン)とも読める表現だから、私が想像しているよりも冷たい印象に映るのではないかと少し心配になりながら、それでも他の人という意味ではこの言葉が一番適切かと思ってこの言葉を使う。
たまにこの冷たさが自分には合っているような気もしてこの言葉を使う。

私は他人にあまり興味がないのかもしれないな…と思う。
表現が曖昧なのは、きっとそうである事を自身が受け入れたくない事の表れだろう。
これは自身に対しても他人に対してもよく思う事だが、実際はそうだと分かっていても自分にとって都合の悪い受け入れ難い事実に対しては曖昧に表現したがる節がある。
意地悪な私がいつも「本当はわかっているくせに」と心の中で小さく呟く。うるさい。
私は他人に関心がある暖かい人間に憧れただけの冷たく身勝手な人間なのだろう。
「優しくなりたい」そんな意識が強く、理想の自分に近づくための術として行動をするのであれば、それは実際のところ優しさでもなんでもない。
結果的に誰かが嫌な思いをしないで済むなら、別に悪い事ではないと思うけれど、何もかもがきっと自分の為な私は、優しいあの子のようにはなれない。
本当に誰かの為と思って行動を起こす人間もいる事を私は知っているからこそ、私はそこを履き違えてはいけないと強く思うのだ。

消して他人が嫌いなわけではない。
ただ、他人がどうであるかよりも、自分がどう動くかに焦点が向いてしまう。
そういう性分なのだろう。残念な事に。
これをどうにかしようとしたところで、どうにかする為に取る行動は純粋な優しさとは分類できない。どうしようもない事なのだ。
養殖された魚が育てられた環境だけで天然物と価値を差別されるように、私も養殖された優しさだけを持って、本物になれないコンプレックスを抱えながら優しい人のフリをして生きていくしか術はない。
出来るだけそれっぽく、上手に擬態出来たなら役に立つ事も少しはあると信じて。

こんな風に言葉にしてしまう事で、「そんな事考えたことも無かった」という人が、実際自分はどうなのだろうと考え出してしまうかも知れない。
もしかしたら自分が思っていたよりも自分は薄情なのでは無いかと不安になってしまう人もいるかもしれない。
そんなリスクまで承知した上でこの文章をここに記す事自体、きっと誰かにとって優しくはない。

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