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貴方に恥じない大人でいたい。

私の言葉や考えを好きだとか、共感したとか、そんな有難い言葉をもらった時、私は「この人に恥じない大人になろう」と思う。
では、恥ずかしい大人ってどう言う事だろう。
なんとなくのイメージはあっても明確に言葉にしてみた事はあまりなかった気がするので、今回はそこに挑戦してみようと思う。

お外の人の言う"恥ずかしい大人"っていうのと、私のイメージする"恥ずかしい大人"は多分少し違う。
例えば地べたに座り込んでみたり、ドリンクバーの飲み物をあれこれ混ぜてみたり、はたまたボキャブラリーが絶望的に乏しかったり、なんて、そんな事ではない。
私の思う"恥ずかしい大人"というのは「そんな事をやたらに気にしてまともな大人ぶっているような大人」というとニュアンスが近いかもしれない。(私の中にもそんな大人がいて、日々闘いだったりするわけだが。)

悪く思わないで欲しいのだけれど、きっと私の言葉や考えを好意的に見てくれる人の多くはお外の人の言う"まともさ"に疑問を抱いていたり、場合によってはそれに苦しめられている様な人もいるかもしれないと思ったりする。笑
そんな人が「こんな大人もありかもな」と思える様な大人になる事が私の理想だ。

きっと多くのマトモなオトナたちはソレになる為に多くの事を泣く泣く諦めた。
そこに本質なんて無い事は多くの人がきっと気づいて、そんな虚しさを同調する事で誤魔化しながら微妙なバランスの中で必死に生きている。きっと、向こう側だって必死に生きている。
だから、そんな微妙なバランスを歪ませる因子を受け入れる事はなかなか難しい事なのだと思う。
自分が諦めざるを得ないと思って諦めたものを今もまだ諦めずに持っている誰かの事を羨まずにはいられないし、他人の感覚なんて自分では測れないものだから「自分の方が大切にしていたはずなのに」なんて思ってしまったりして、誰も悪くないのに腹立たしく思ったり、とにかく気に食わない。そんなのってわからなくもないと思う。
きっとマトモなあの人も、私も、もしかしたら貴方も、みんながマトモの被害者なのだ。
だから、出来る事なら誰も恨まずに、インチキなマトモだけを許さずに、大切なものだけを大切にして生きていたい。
貴方が少しでも安心できる様な世界の一部でありたい。

そんな大人でいられたら、貴方の言葉に恥じない私に少しは近づけるのでは無いかしらと思うのです。

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