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僕らに問いかけられている

これは僕の「見方」であって、ちゃんとしたエビデンスを確認したことではない。でも、僕なりの「仮説」だとは思っている。だから、まるっきりのフィクションというわけでもない。

モスバーガーのイートイン。女性二人のお客さん。店内に響き渡る声でおしゃべりをしている。ひとりは84歳の方だという。自らそうおっしゃっていた。そこから比較するとお相手は50歳代だろうか。

話題の中心は、人の排泄物についての話し。介護にご苦労されているのかもしれないが、たいへんビジブルに臭ってくるように話しをされていた。僕もこれからハンバーガーを食べる。周囲も同様だ。耳が少し遠いのかもしれないが、腹から響きわたる腹式呼吸。彼女たちの話を微に入り細に入り拝聴せざるをえない状況に置かれる。

また、あるとき。

そんなにゆとりがない電車の車両で、おじさん(否。爺さんだな)が足元に置いた紙袋の中をゴソゴソと何度も点検だ。その度、背中のリュックを周囲の人にはパンチを浴びせる。リュックは重そうだった。

なんで、いい歳になって周囲に気を配ることができないのか。

このこと、あの谷川弥一元代議士のぶらさがりで記者をバカにする態度、あまりにも不遜な記者会見の態度にも通ずるところがあると思う。麻生さんに繰り返される差別的な発言もそうだ。

「私」は周囲の人と生きていく。だから「人の間」と書いて「人間」という。でも、彼らは一人きりで生きているようだ。

「心無い人」というと、その言葉には「少数の」という意味が含まれているように思う。でも、「心無い」が、① 他人に対して思いやりがない。情がない。② 思慮がない。無分別である。を意味する言葉なら、僕はそうじゃないだろうなと思っている。
正規分布になぞらえれば、平均近くにかたまる65%近くの人が、そうなんじゃないかと思っている。パレートの法則に則って考えれば配慮できる人が20%で、あとの80%はダメかもしれない。

そう考えた方が
還暦過ぎの僕が経験してきたことに説明がつくように思う。

多くの人がシステムに参加して人生を送ってきた。自分で人間関係を構築して、それを生業に繋げて暮らしてきたわけではない。参加すれば生きてこれたのではない。仮に彼が、どこかの会社の部長さんでも、自分の力量で、たくさんの部下を従えられたわけではないだろう。会社が、彼をそのポジションにつけただけだ。しかも、彼らが現役だった頃は「年功序列」という慣習もあった。
大規模な工場でラインに就く仕事なら、自分が取り付けるべき部品の取り付け方だけのことを考えればいい。下町の工場のように、その部品がどういう機械の、どこに使われ、どう作用するのかを理解して作業にあたる必要はないし、もとよりチームワーク(人間関係)に気をつかう必要もない。一人きりで自分の作業を完結させればいいんだ。

スーパーで買い物をし、決まった日にゴミを出す。下水道料金を支払えば、生活には困らない。井戸しかなかった時代の「井戸端会議」の必要もない。都市に暮らしているなら「近隣関係」は必須のものではない。

「野暮」という言葉は「野原でひとりっきりで暮らしているようだ」、つまり他者の存在に無頓着であり、気をつかうことができないことを揶揄したところから生み出されたと言われる。

でも、今や「野暮」がスタンダードだ。
80歳代にもなっても周囲に配慮することができない大人がたくさんいる。
しかも、その状況に無自覚だ。だから麻生さんの演説にウケて笑う一群の人々の声が同時に録音されている。

彼らは世相にも疎い。そういうことは誰か偉い人が考えればいいことで、自分は言われる事に従っていればいい、あとは自分の自由だと思っている。だから昼間のイートインやカフェは、高齢者でいっぱいだ。みな周囲など蔑ろに大きな声で話、腹から笑っている。

役所の現状、この国の経済の現状、若者のあしたなど、そんなことはどこ吹く風だ。

1961年生まれの僕らでさえ、年金で生きていくことは、ほぼ不可能であ
ろう。80歳になっても働いていなければならない。そんな世代間の格差にも彼らは無頓着だ。

そんなことは他人事だ。

もちろん、尊敬に値する人もたくさんいらっしゃる。でも、それは少数だ。
だから、年齢として高齢だから「敬老」という考え方には立てない。「十把一絡げ」は、多様性を視野に入れていく時代には相応しくないとも思っている。

そもそも「一億総中流」という考え方は乱暴だったのだ。だから取り残された人もたくさんいたし、都市と地方の格差も明確になった。

(例えば、電気を大量に消費する都市と、原発を誘致せざるを得ない地方との関係など)

「フツウ」ってなんだ。多数決の「多数」の独裁ではなかったか。「多数」を頂点とする「身分制度」ではなかったのか。

少なくとも「フツウ」の高齢者は子どもだ。「年の功」を感じるのは難しい。親から学校、就業先と、躾けられるとおりに生きてきたからだろう。
だから、自分で判断ができないことにも未だに無頓着だ。

彼らを踏みこていかなければ、この国の未来はないだろう。

麻生太郎さんは83歳、森喜朗さんは86歳、そして膨大な団塊の世代、1960年代に生まれた僕らの世代…

繰り返すが、この国は沈み始めている。未だに一等船室専用のラウンジでロンドを踊っているが、足首までは海水に使っている。

このタイタニック号をどうする?
僕らに問いかけられている。