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義務

種村 弘さんの著作「もうおうちへかえりましょう」に出てくる一節。

この世に生まれてきただけで自分には人間としての権利があるとか、
お互いに話せばわかるとか、いわゆる戦後民主主義的な理念に
私たちは首まで浸かっていた。

この本が最初に出版されたのが2004年4月。
文庫本化されたのも2010年の8月(小学館文庫)。
つまり、もう、ずいぶん前の「本」ないんだけれど、僕がこの「本」に出会ったのは最近のこと。知らなかった。

特にこの世に生まれてきただけでの部分。「ああ、そうだな」と。
明石家さんまさんが、しばしば口にされる「生きてるだけで丸儲け」の奥ゆかしさとは まったく逆に、市井の僕らの多くは「この世に生まれてきただけ」なのに、自分の「利になる場合」は声高に権利を主張する…

そうしたことを、政治家さんも「当然の権利」として利用してきたような気がする。

保証されるべき権利は強調されるが、果たすべき義務についてはうやむやなまま…責任もそうだ。不利になれば口をつぐむ。匿名の森に逃げ込む。

でも「コモン」「公」のことは役所に丸投げで、利用する権利だけが明確…

これじゃぁ、無理だろう。
実際に話してもわからないものだしね。

でもなぜか、世の中回っている。

邪な人が、巨悪のために、自分の私利のために、情報弱者である「多数派」を利用して、回っているかの如くにイリュージョン見せてるんだろうな。

つまり

リアルな僕らの「世の中」が回ってるんじゃなくて、僕らは確実に、誰かの「家畜」になっていっているんだろう。お乳出せば、住まいとメシは確保できる感じ。牧場の範囲で指示に従っている限りはね。

だから、いつの間に稼ぎの半分を税金に持っていかれて、福祉や教育はセルフ・サービス。ずっと値上がり。それでも黙っている。牧場の経営が心許なくなってきてるんだけど、それは家畜が心配することじゃない。

本当はどうだったら、自力で世の中を回すことができるんだ。
僕らは、当然のように楽に流れていいのか。
義務について、責任について、ちゃんと考えてみなければ…

そのあたりの矛盾を、種村さんにピンポイントで鋭く突っ込まれた感じ。
「私人逮捕」なYouTuberの責任は明確だけど、
数万人はいるというチャンネル・フォロワーの責任はあいまい。

こういう体質を持っている僕をもう終わりにしないと
次の時代は来ないような気がする。