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とっくに始まっている。

「醸造」の肝心なところは数値化もデータ化もできていない。お酒は杜氏さんによる。「醸造学科」の研究は、あまりにも「道半ば」だ。

「農」についても、そうだ。同じ苗床を使ってマッシュルームを育てても、その人にしかできないという「傑作」を連続させる名人がいる。もちろん、そのメカニズムはわからない。

レンズの表面を「絶対0度」、つまり「真っ平」に磨き上げる。これも今のところ人間にしかできない。どうして、そういう結果が出るのか、そのプロセスがわからない。

手の「触感」、タイミングを知らせる「カン」。それを知る人にしかわからないこと。

AIなどによる無人化に徹底してしまうと、こういうことの全てが失われる。生成AIも「触感」「カン」のデータ収集には弱い。

「触感」「カン」でしかないことは、遠い世界にある技能だけでなく、日常的に僕らが接していることにも、多数存在する。
ヘアデザインさんの腕前もそうだろうし、コンビニの接客でさえそうだ。だから、あんなにマニュアル化されていても各人にバラツキがあるし、バラツキがなければ、それだけで気分が悪くなるのだから、受け手が要求しているものも「触感」「カン」でしかないことだ。

だから、コンビニの「アバター接客による無人化」だけは「理にかなっている」と思う。遠隔地にいる「接客が得意な人」でコンビニの接客を賄う。
つまり、福岡にいる人が東京のコンビニで接客をする。自分の家、部屋でPCに向かうだけなのだから、通勤時間がなく、育児、介護の負担があっても働きやすくなる。コンビニ側にとっても、全国、場合によっては海外から優秀な人材に参加してもらえる。いわゆる「Win-Win」の関係だ。お客さんにとっても、気分を悪くすることが減るだろうから、第三者にもメリットがあるという「Win-Win-Win」の関係なのかも知れない。

でもね。

優秀な人しか、コンビニの接客はできなくなる。接客のプロフェッショナル化だ。で、その他の仕事は高度に「無人化」されていく。

え。「並」の人はどうするの?

「触感」「カン」の仕事は急速に失われつつあるし、多くの「並」の人の仕事は失われる。

「無人化」とは、そういう結末を迎えるものなのだろう。

江戸のまちには、たくさんの、穴開き銭をまとめておく撚紐をつくる「縄ない」という仕事があり、各家庭から炊事で生じた「灰」を集めて、木炭欠を取り除いて清酒の濾過用に売る「灰買い」という仕事など、簡単な仕事がたくさんあって、多くの人々に福祉ではない就業が保障されていた。

電動動力もコンピューターもないのだから「手業」は、おのずと発達していく。だからマリーアントワネットは、日本の蒔絵を収集した。

なぜ、江戸時代を止めてしまったのだろう。

明治以降は、大きな資本を持つ者が大規模に投資をして労働者を隷属させる方法に終始し、その結果が

「触感」「カン」の仕事は急速に失われつつあるし、多くの「並」の人の仕事は失われる。

だ。

僕らは何をやってるんだ。僕らはバカか。

確かに、僕らは「楽ちん」と「コンビニエンス」を手に入れたのかもしれない。でも蛇口をひねれば水が出るなら、水汲みのコツも失うし、「水」を保存する方法についても見失う。ペットボトルの「お茶」を常用すれば、美味しい「お茶」の淹れ方もわからなくなるし、酸化防止のために添加されているビタミンCが入っていない「お茶」の味もわからなくなる。

滅亡に向かっているなと思う。少なくとも文化的にはそうだ。江戸時代以来、受け継がれてきた「日常生活の安寧」もそうだ。「安寧」は近く失われるだろう。

昨年、わが家では一階部分のガラス窓には、破られないように防犯用に特化したものに付け替えた。

顕在化すると、その後は早い。坂道を転がり落ちるようにゆく。

しかも「今般」は、きのうやきょうのことで生み出されたものではなく、明治政府の「富国強兵」政策から連綿と受け継がれてきた政府施策に拠る。その蓄積だ。これに戦後はアメリカの思惑が乗った。

(だから、僕らは米飯食から小麦食へとドラスティックに転換した)

だから、なんとかしようにも、そうしたければ、施策にはタイムマシンがいる。そんな状況だ。

前の敗戦直後の状況になるのは必須だ。

でも、前のときは1945年の8月に敗戦して1964年には東京オリンピックを開催するまでに復興する。この間、奇跡といわれたが、それでも20年近くの年月を必要とした。朝鮮戦争という特需もあった。

さて「これから」

世界各地で戦争があって、プーチンさんが保ってしまって、トランプさんが再選され、企業のためにAI化、無人化は進んでいく。お役人の数は減らず、1人でできる仕事を3〜5人で行い、そのチームが少なくとも3チームはある。でも、長距離トラックに関しては、状況も整えず4時間に30分の休憩を強制し、昼間の走行は不可能になるなど労働条件を法的に改悪し(あの図体のトラックに、昼間、停車スペースなどない)、そういう下地を法律でつくて、無人化へと道を拓いていく。

こういうやり方も明治以降な感じだ。

そして「明治以降」は、第二次大戦を呼び込んだ。

多くの戦死者(多くの場合、非戦闘の、餓死、病死、自死だ)を出し、国中の都市を焦土にして、さらに戦災孤児や、復員してきても故郷に居場所がないなど、この国の人々の人生を翻弄した。もちろん沖縄には、子どもの頃に死体を踏んだ感触が、高齢になって蘇り、PTSDに悩まされながら亡くなった方もいる。

でも、僕らは「臣民」を止めようとしない。敗戦時に「小国民」だった世代は、未だに「隣組」を懐かしみ、戦中派から団塊の世代にかけては、スーダラな無責任だ。

(闘う団塊の世代はむしろ少数派で大半の団塊の世代は「ダッコちゃん」「フラフープ」であり「若大将」だ。闘う団塊の世代も、動機は私的に過ぎた)

そして今は「家畜化」がデフォルトだ。多くの人が、その自覚すらない。

どうしよう。家族と「ともだち」と職場の人間関係と、その「狭い範囲の人々の認識」と、SNSや検索エンジンの中に「あらかじめ編集された情報」だけを「宇宙」だと思って、本当は大海であり、ナギの日が少ない海に漕ぎ出していくのか。

政府は冷たい。戦死すれば褒めてくれるし、災害の犠牲になれば追悼してくれる。でも、それだって式典がある一日のことだ。いわゆる「シベリア抑留者特措法」が成立したのは、シベリア抑留を経験した、うちのじいちゃんが死んでから、ずいぶん経ってからだ。待ってたなと思った。

現状と地続きの未来に僕らの安寧はない。ただ使い捨てられるだけだ。長寿も製薬や医療のためのモルモットにされるだけだろう。僕らはベッドに縛り付けられて「胃ろう」で生かされるだけだ。その必要もなければ、黙って殺されるのだろう。高額医療の保険適用をやめれば一発だ。

(ドイツでは心臓移植をしても無償だ)

自民党を止めるのではない。「明治以降」を卒業することができなければダメだ。間に合わなくて、世の中が荒れても、止めなければ、さらに長期にわたる地獄に叩き落とされる。

でも「新しい戦前」はとっくに始まっている。



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