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逡 巡

たいていの人が「ぬくもりのある居場所」を確保すれば、そこに安住しようとする。そりゃそうだ。ぬくもりが感じられるんだから。

で、こういうことが「フツウ」とか「ブナン」の源泉になるんだと思う。

敗戦直後を除いて1950年代に入る頃から今日に至るまで、いろいろあったにせよ、国としては安泰を保ってきたんだと思う。だから「フツウ」とか「ブナン」、「『みんな』に参加して生きていく」が生存戦略として適切だったのだと思う。「冒険」を避けて「退屈」を我慢した方が賢明だったというわけだ。

でも、「フツウ」「ブナン」の居場所は急速になくなりつつあり、「みんな」は「前に倣え」の「前」があいまいになると、ただのおろおろする「群衆」に過ぎなかった。充(あて)にすることはできなかった。

突破者。「突破」は、関西において「思い込んだら、一途で、がむしゃらな、無茶者」を指す言葉になることがあり、宮崎学には、これをテーマとした「突破者」という著作がある。
一方、越境者。「越境」は、境界を越えること。複数の分野を横断できるよう、複眼的な視点をもつこと。それを体現する者を突破者という。

戦後の長い間。「突破者」も「越境者」も、一部のもの好き、変わり者にこそ専売特許なことで、だから親御さんが推奨する「フツウ」「ブナン」が適切な人生戦略だったのである。

急速に、極端に変わったのは世の中の方だ。無許可に勝手に変わった。

でも気がつけばホームには人がいない。レジにも人がいない。楽楽清算だし、弁護士事務所にもクラウド型の支援サービス、横須賀市役所はチャットGPT採用。一台のロボットで1千人分の労務を軽減させた工場があり、長距離トラックの無人化も目前だ。NHKのニュースでさえ、自動音声の読み上げだ。

「フツウ」にやってたら、ホントに仕事なくなっちゃう勢いだ。
各人なりに「突破者」「越境者」になるしかないのが現状だ。

(ただ、これまでのノウハウに従って「自営」になればいいというものでもない。それだったら、それなりの大きさの会社に就職しておいた方が無難なのかもしれない。だから必要なのは「突破者」「越境者」になる覚悟ってことになる)

そんなこと言われたって、太平の世が長く続いて「突破者」になるのも「越境者」になるのも怖い。親御さんも心配する。だけど「フツウ」を続けるのはもっと怖いんだ。成果で対価を得るのではなく、時間給な給与で働く賃金労働者を続けようとするのは、さらに怖い。賃金労働者から賃金労働者に転職して、多少待遇が良くなっても、それは誤差。安全性が高まったわけではない。

テレビにはレアケースしか出てこないから「突破者」「越境者」しか出てこない。映し出されるのは、すでに「突破者」「越境者」になれちゃった人たちのエピソード。だから。まだ「突破者」「越境者」になれない、じゅくじゅくしている状態は描かれない。そして、ここが苦しい。怖いんだけど、省かれちゃってる。
もちろん「突破者」「越境者」になってからだって苦労はある。数年ごとに「成長痛」みたいなものがある。これも苦しい。でも、これがないってことは「売れてない」ってことだから仕方がない。会社に所属してなきゃ、誰に変わってもらうこともできない。そして、ここも「実像」なところはテレビに描かれない。

やっぱり自分で考えるしかない。

ものの値段が驚異的に上がっていく中で「みんなで力を合わせて」の時代が終わっていく。与えられた命令を処理するタスクこそ、その職はAIにロボットに奪われていく。時間の問題だ。

どうしようね。これから「まったり」も「マイペース」も難しいかも知れない。とにかく時代の転換スピードが早いから。

でもね。

怖いけど、逡巡は命とりになる。そういう時代なんだ。

【逡巡】決心がつかず、ためらうこと。しりごみすること。