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やっぱり「これまで」は終わるから

サッチャーさんの評価が未だに賛否両論に分かれるのは、彼女が確かにイギリス経済を回復基調に乗せたが、弱者への福祉的な支援を切り捨て「働かざる者、食うべからず」を徹底しようとしたことに拠るのだろう。

だがレーガノミクスがこれに続いた。
新自由主義全体にそんな色彩があるし、鄧小平の「先富論」もそんな感じ。なんだかんだいって世界的な国家施策の潮流になったともいえる。

経済成長第一主義だ。

お隣の韓国も、一度、経済的な苦境を迎えて、半ば二極化を容認して、これで経済的には成功した。二極化は進むが国は富む。おかげで今や大卒初任給は日本に比較して月額で10万円以上も高い(日本円換算)。韓国の人が日本に買い物に来れば、文字どおり「安い日本」だ。

でも、大学を出ても、一人がやっと寝れるような屋上の階段室に居住し、ウーバーイーツみたいな仕事でやっと食い繋ぐ人も増加。親の経済力が子どもの学歴の差に明確に反映され、生まれながらにして生涯所得も階層も二極化が進んだ。それが韓国でもある。

こうした変化は2010年ごろから顕著になったという。

でも、二極化容認、稼げるやつだけでいくぞが、今み世界的な潮流、もちろん現在進行形だ。

たぶん、国家にとっても、一人ひとりの国民にとっても、量として「お金を所有すること」に至上の価値がある限り、この傾向は続くだろうと思う。

この間、労働者階級の中でも二極化は進んでいく。もちろん歓迎すべきことではないが進んでいって固定化する。そして、二極化の下の方にこそ酷い。

マス市場というか、高度成長期を牽引してきた大衆的な市場における、例えば「旅行」などのレジャーは、岐路に立たされる。マスな消費者が、そのゆとりを失うからだだ。二極化は世界的な傾向なんだから、たぶんインバウンドも同様だ。どこもかしこも経済優先なのだから仕方がない。

しかも、AI化、デジタル化、つまり無人化の流れは。時代の変化に、これまでには考えられなかったほどに加速度をつける。

繰り返すけれど「先富論」的な国家運営の方法が上手くいくとは思えない。でも、国家は「海に浮かぶ超巨大船」だ。急に進路を変えることもできないし、ブレーキをかけることもできない。だから、その間をどう生き延びるかを考えておかなければならない。

一言でいえば、マス市場(大衆市場)を相手にしてきた「これまで」の感覚をどうアジャストできるかだ。「旅行」になぞらえれば、量的な「金持ち」を、金銭的な高級化でもてなそうというのではなく、少なくとも数代に渡ってゆとりある暮らしを保ってきた「家」出身で、質的な居心地を提供するような観光、つまり「sightseeing」でも、イベント的に浴衣を着る「コト消費」でもない。

本格的な「場所」の提供である。

山崎孝史は著作「政治・空間・場所 政治の地理学に向けて」の中で、「場所」について次のように説明している。
 
まず入居先を探す時に、大学近辺の不動産業者を訪れ、入居可能な物件をいくつか比較しなかっただろうか。その物件の一つ一つは「1K」などと示される間取りの記号・図面、畳の枚数、面積、そして敷金・家賃などで表現されるのが普通である。これが「空間」として物件をとらえた場合に確認できる客観性や抽象性である。《中略》
 同じ例を用いれ「場所」の説明をしよう。こうして自分が入居するワンルーム・マンションを決め、引越しもすませ最初の夜をむかえたとしよう。おそらく初めての一人暮らしに興奮して眠れなかったという人もいるだろうが、そうした最初の夜、あるいは住み始めて最初の数週間、帰宅しても誰もいない部屋に一人でいることについてどのように感じたろうか。部屋の主観的な感じ方は、おそらく人それぞれであろうが、高校まで住みなれた家、家族とともに暮らした家、そのなかの自分の部屋と比較して、新しいワンルーム・マンションの空間にどんな違いを感じただろうか。もし両者に違いを感じたとしたら、この違いが住み慣れた「場所」と住みなれていない「空間」との違いともいえるのである。

再開発な街はどこへ行っても「カオナシ」だ。企業収益のための効率が優先されたからだ。本来「私」以外「私」じゃない来街者に一様な空間を押し付けるようなところがある。
同じように星野リゾートのような「組織」には、空間や食事、サービスの高額化は可能になっても、質的な「旅行」を求める来客のリクエストに応えることはできない。なぜなら彼らのリクエストは非言語的だ。つまり、ノウハウ化して社内に汎用することも不可能であり、マニュアル化を離れても、従業員全員の改革ともなれば、ハビトゥスに至っての教育が必要になるかもしれない。

(つまり、タイムマシンでもない限り無理だということだ)

再開発手法のまちづくりでは無理っていうことになるし、「均質」を旨としてきた組織的なケアも同様だ。

(明らかに自己矛盾とも言える)

たぶん、再開発を免れた「まちや村」に、受け継がれた芳醇さがあって、「まちや村」の風通しがよく、よそ者に開かれていえば、そこが旅行者には歓迎されることになる。観光名所のあるなしも交通の利便性もそんなに重要な評価基準ではなくなる。

その地に根付いた文化や風土の助けを借りるべきだ。

生き残るためには、大きく変化する「これから」のために自らの考え方をアジャストすることだ。マス市場(大衆消費)が無くなることをイメージできる自分になっておいた方が有利だ。経営者やリーダーだけでなく、現場で働く人すべてに「意識改革」が要求される。

高級化も、単純に「高額化」ではない。繰り返すが、要求されることは質的で、非言語的なもの。だからこそ「これから」すべてを創ろうとするのではなく、その地の「風土」を上手く利用することだ。かつての宿場町などには、よそ者を迎える「もてなし」が地の利になって染み込んでいる場合がある。現状、見には彩に見えずとも地下水脈は清流だったりする。

時間がないから。

時代の展開は早い。「強引さ」は禁物だ。できないことはできないと考えた方がいい。もう1964年の東京オリンピックから60年近く。あの頃、流行語になったバレーボールの大松監督の「成せば成る。成さねば成らぬ、何ごとも」が適切なスローガンになった時代とは異なる時代になった。

あの頃はAIもインターネットもないんだ。駅の改札では、人が切符に鋏を入れていた。