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写真の今後と世界の今後

最近写真を撮ってない。

「飽きた」ということは、ありますね。

逆によくもまあ同じことを何十年と続けてきたなと、そっちのほうがびっくりです。(笑)

一通りやり尽くした感はありますね。

「写真ってこういう感じ」みたいな、どこをどう探索しても、すでに知ってる場所、みたいな。

何にどう触れても、「ああね、はいはい」みたいな。すでに知ってる感。

もちろん見た目は確かに新しい。技術の進歩も素晴らしい。

でもその奥にある「感覚」に、既視感を禁じ得ない。


写真である必然性は薄れています。

これはおそらく、写真に限らずかな。

どんなジャンルであっても、それである必然性は、薄れているような気がします。

世界がフラット化しつつあります。

情報は瞬時に世界の隅々にまで行きわたり、高低差のない世界になってきました。

フラットな世界です。

新しい感じはもはや出にくい。

情報の洪水にひたひたと浸って、すでに世界は「こんな感じ」であることを共有しています。


停滞?ともいえるかもしれません。

あるいは古い世界が置いて行かれようとしているのか。

いくら新しいことを繰り出しても、その奥にある感覚には、やはり既視感がある。

変化に慣れすぎたのかもしれません。



「価値」って何でしょうか。

価値ってもうないんじゃないかな。

高低差に価値が生まれるとしたら、高低差のない世界で価値はもうないんじゃないかな。

昔のようにミリオンヒットの出ないフラットな世界で、価値にはもう価値はないのかもしれません。

価値に価値がないとしたら、私たちは何を求めて生きればいいのでしょう。


それはつまり、「求める」という時代が終わったということですね。

これからは「求めない」時代です。(笑)

価値に価値を感じにくい時代。

どこかへ行くというよりも、そこにいるという時代です。

どこかへ行って何かをゲットするぞ!ではなく、ここにいてやって来るものを受け取る時代です。

どこに行っても結局一緒という感覚が浸透しつつある今、「ここ」に注目が集まっています。(自分の中でね)

そして「ここ」の豊かさが、再認識されつつあります。

何も求めなくても、最初からありました。

何かを求めてさまよわなくても、すでにここにあったというわけです。


高級料理もカップラーメンも結局一緒なのですよ。

海外旅行も近場の散策も、結局一緒なのですよ。

写真に関していうと、何をどう撮っても一緒なのですよ。

この「一緒感」、わかりますかね?

フラットな世界です。

我々は何をどうやっても、結局一緒ということに気づいてしまいました。

追いかけても追いかけなくても結局一緒。

得ても得なくても結局一緒。

じゃあどうする?



もう何もしなくていいですね。

物事は勝手にやってきて、勝手に去っていきます。何もしなくても。

何もしなくても、自動的に世界は進行してくれます。

なんて楽ちんな世界でしょう。(笑)


頑張ることはちっとも否定しませんが、頑張らないことも否定しません。

頑張ってアイドルになる夢を叶えようとすることは否定しませんが、何もせずに家にいることも否定しません。

何かを得ようとすることは否定しませんが、何も得ないことも否定しません。

沢山のいいねを得ようとすること、人気を得ようとすること、お金を得ようとすることは否定しませんが、何もいらないということも否定しません。


「結局全部一緒じゃんか」ということです。

わあわあやってますけど、結局全部一緒です。

それぞれこっちが正しいと言い張っていますが、どっちも一緒です。

これがいい、それがいいと言っていますが、どれもいいです。

フラットです。世界はフラットです。

どっちでもいい、なんでもいい、どっちの価値が高いということはない、何でも一緒。

このとき何を選びます?

もはや「選ぶ」という作業すら必要ありませんね。(笑)


写真はもう出尽くしました。まあ写真に限らず、何でも。

「いやいや、表現の可能性は無限だよ」

無限の可能性を追求するという姿勢は、別に普通のことです。何も新しいことではありません。

「いろいろやってみたけど、だいたい一緒だよね」

いま世界はこのあたりの共通認識を得ているのではないでしょうか。

そんな世界の今後の展開がとても楽しみです。(笑)



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