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大事なのは「いい」と「好き」の違いを見極めることだけ

例えば1枚の写真に対して、「これはすごくいい写真だ」と言ったり、「これはすごく好きな写真だ」と言ったりします。

さらには、「これはとてもいい写真だけど、好きではない」とか、「これは全然よくない写真だけど好き」と言ったりもします。


「いい・悪い」

「好き・嫌い」

写真の評価には、だいたいこの二つの軸が用いられます。


この二つの違いは一般的に言って、「いい・悪い」は客観的な意見であり、「好き・嫌い」は主観的な意見です。

「いい・悪い」は、誰が見てもそう思うだろうという意見であり、「好き・嫌い」は、一般的な意見とは無関係な個人的な意見です。

だから、「一般的にはいい写真と言われているけど、自分は好きではない」とか、「一般的にはいいと言われないだろうけど、自分は好き」といった言い方も可能です。


写真の評価には、「いい・悪い」と「好き・嫌い」の二つのの軸がある。

この点はまあ、ご納得いただけますね。



でも、


「いい・悪い」はありません。(笑)

「好き・嫌い」はあるけど、「いい・悪い」はありません。

「いい・悪い」って、よ~く見たら幻想でしかないのです。


よ〜~~く見てみてください。

世の中全体の空気、みたいなものでなんとなく決められている「感じ」はありますが、明確なラインもなければ実体もありません。

というか実態は、「好感」が転じて「いい」になり、「嫌悪感」が転じて「悪い」になっています。


お年寄りに席を譲るのは好感が持てるので「いいこと」になり、詐欺や犯罪は嫌悪感がするので「悪いこと」になっています。

額に汗して働くのは好感が持てるので「いいこと」になり、楽して儲けるのは嫌悪感がするので「悪いこと」になっています。


「いい・悪い」とは結局、「好き・嫌い」が転じたものです。よく見ると。


世間一般の「好き」が昇華して「いい」になり、世間一般の「嫌い」が昇華して「悪い」になる。

「いい・悪い」なる、確実具体的な実体があるわけではないのです。


例えば「なぜ人殺しが悪なのか」という議論がありますね。

これについて誰もまともに答えられないわけですが、それもそのはず。

だってそもそも「いい・悪い」が無いから。(笑)

実体の無いものに実体を与えようとして四苦八苦しています。


これについて確実に言えるのは、「人殺しは嫌悪感をそそる」という大多数の認識と、それが「殺人は悪」という一般理論に昇華した、ということだけです。

「殺人は悪」なる具体的確固たる実体はどこにもありません。



ここで、「いやいや、『好き嫌い』だってハッキリとはわからないよ、とても曖昧だよ」という意見も出てくるでしょう。


本当にそうでしょうか?


本当にあなたは、世の中の全員をまったく同じように好き、あるいは嫌いでしょうか?

なぜある特定の人は空気のようにスルーできるのに、ある特定の人は近くにいるだけで胸がドキドキするのでしょうか。

なぜ余暇の過ごし方は写真や読書ばっかりで、ロッククライミングやサーフィンが頭の端にも上らないのでしょうか?


確かに、「好き・嫌い」も「いい・悪い」と同じく、目に見えないし、手で掴むこともできません。

しかし、確実に「ある」のではないですか? ただ単に見逃しているだけで。


だって現にその人の前で「ドキドキ」していますよね?

ロッククライミングなんて、今言われて初めて意識に上りましたよね?


好き、嫌い、えり好み。


見えないからといって、無いわけではありません。

だってあるでしょ?実際。ただ意識していないだけで。

それは「いい・悪い」よりも確実に、ハッキリとしていますよね?



そんな自分の感覚に気づかないで、一般的な「いい・悪い」を無条件に受け入れてしまっていませんか?

一般的な好き嫌いの集大成である「いい・悪い」を、自分の意見として無条件に採用してしまっていませんか?


「いい・悪い」も、誰かの好き嫌いなわけです、ぶっちゃけ。

誰かの好き嫌いを、自分の好き嫌いと混同していませんか?

あなたの身体が、誰かの好き嫌いに乗っ取られていませんか?


他人というのは集合体なので、大きく素晴らしく見え、自分は小さくみすぼらしく見えます。

他人の好き嫌いの集大成である「いい・悪い」は、自分の好き嫌いよりも立派に見えます。


でも個々人の単位で見ると、全員一緒です。

大スターであろうと、近所の小学生であろうと、それぞれ固有の好き嫌いを生きているという点で、一緒です。

よく考えたら、一緒です。

よく考えないから、あの人はすごい、自分はつまらないという「一般的な」感覚が勝手に浸透しているのです。


よく見て!」(笑)


世の中に好き嫌いしかないのなら、なんでわざわざ他人の好き嫌いを採用する必要がありますか。

自分の好き嫌いでいいじゃないですか、等価なんだから。

もちろん他人の好きを採用してもいいですよ、自分もそれが「好き」なら。(笑)


結局は自分の好き嫌いしかないのです。

よく見たら本当にそれしかないのです。

「いい・悪い」は幻想です。

「嫌い」なのに「いい」に合わせる必要はないのです。


嫌いだけど「いい写真」だから、それを撮らなくてはいけないということはないし、嫌いだけど「いいカメラ」だから、それを使わなくてはいけないということもありません。

なぜなら合わせるべき「いい・悪い」には実体がないから。

「いい・悪い」は誰かの好き嫌いであって、あなたのものではないから。

幻想である「いい・悪い」に合わせるのは、実に荒唐無稽な話です。



そもそも不思議じゃないですか? それぞれの人にそれぞれ固有の好き嫌いがあるって。

全員が同じではなく、それぞれバラバラ。

だからこそうまくいくんじゃないですか? 世界は。

全員が同じ方向に偏っていたら、バランスがおかしくなるでしょう。

それぞれがそれぞれの方向に引っ張っているから、均衡が保たれています。

全員が同じ方向に傾いたら、どたどたと崩壊するでしょう。


だから、自分は自分でいいのです。

というか自分であったほうがいいのです、世界のために。

あなたが思いっきり自分自身であることは、世界に貢献しているのです。


というわけで、


写真は好きに撮ってください。

好きな写真を好きと言ってください。

世界のために。(笑)


よくない写真? 全然オッケー。

ダメな写真? 全然オッケー。

だっていいも悪いもないから。


世界にただひとつある確実なもの。

それはあなたの「好き」だけです。


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