マガジンのカバー画像

組織を芯からアジャイルにする

140
「組織を芯からアジャイルにする」ために。あなたの居る場所から「回転」を始めよう。
運営しているクリエイター

#探索

「探索」の度合いを外側の基準で決めてはいけない

 「アジャイル」に取り組むには、より探索的なテーマや領域が良いだろう、組織にとって新規性の高いところ、分かりやすく言うと新規事業や新規のプロダクト開発などだ。…といった言い回しは、私自身説明として用いるし、「アジャイル」という言葉のそばによく存在する。  話がはやいので、それに乗せて会話を進めていくことがほとんどだが、この言い回し自体にミスリードを織り込みかねないと思っている。「より探索的」だとか、「新規性の高さ」とは、誰にとってのそれなのか。もちろん、当事者組織にとっての

探索はOKR、最適化はKPIで意思疎通する

 「効率の最適化」一辺倒から、他の選択肢を得るために、探索適応を取り入れていく。それは新規事業だけに限った話ではなく、既存事業においても、いや、既存事業でこそ必要としている。顧客は誰か?をあらためて問い、そして顧客を知りなおす。それは、自分たちを取り巻く環境、社会を知りなおすということでもある。  この探索適応を仕事に取り入れようとすると、「そんな時間はない」問題と直面する。なにしろ既存事業は「効率への最適化」を磨き続けてきた前線になる。そんな場所で、どうなるかもよく分から

探索プロジェクトの「立ち上がり」を作る

 探索活動・探索プロジェクトをはじめるにあたって、最初に必要になる一式とは何か。最小限とすると以下を置く。なお、ここでいう「探索活動」とは、仮説検証型アジャイル開発における「左円」のサイクルのことである。 探索立ち上げの一式 (1) 事前知識を揃える (言葉の理解をあわせる) (2) 探索のインセプションデッキを作る (3) チームビルディングワークを行う (ドラッカー風エクササイズなど) (4) スクラムイベントを決める (いつ何やるか決める) (5) バックログ

「探索だけ」行う、「適応だけ」行う、ではなく「探索と適応」を繰り返す

 常日頃、「探索と適応が不可欠だ!」という話を至るところで行っている。  それだけに、そろそろ概念の整合を取らないと、ちょっと辻褄合わないなと思うところがある。人にモノを伝えようとすると、口にした瞬間に概念の「くるい」に容易く気づくことができる。  探索と適応は、「仮説検証型アジャイル開発」とその並びのイメージを合致させている。  なのだけど、前半の仮説検証にしても、ベースとなる動き方は「アジャイル」になる。仮説検証だけウォーターフォール的なプロセスで、後半だけ「アジャ

探索チームに「ロジカルシンカー」の居場所はあるか

 既存事業でこそ「探索」が必要であるという話を書いた。  この話を踏まえて、「探索チーム」について、もう少し語りたい。既存プロダクト、事業の文脈で、あらためて顧客の状況やインサイトを集めにいく、その際のチームのフォーメーションについてだ。  まず、さらに前提を加えるが、この探索活動のチームの動き方には「アジャイル」が期待される。つまり、スクラムのようなプロセスを適用することになる。探索になぜアジャイルが必要かという話は、いくつかの本に何度も書いているので割愛する。  「

「探索」は、新規事業としてではなく、既存事業でこそ行う

 散々、「組織には探索と適応が必要だ」と言って回っている通り、最近の仕事では「探索チームを結成し、探索に出る」ということが多い。ここでいう「探索」は、その組織にとって「今まで取り組んでこなかったこと」「重要だが緊急性が低かったもの(でも今は高まっている)」といったテーマが主となる。  概ね共通するのは「あらためて顧客に向き合い直す」ということだ。目の前の製品、事業を売るということに最適化してきた結果、そもそも顧客の状況やインサイトが分かっていない。それでも目の前のビジネスを

価値をつくるのか? vs 組織をつくるのか?

 組織で新たな取り組みを始めようとする。例えば、これまでの事業領域を越えて、新たな価値を創出するための探索的なプロジェクトや組織を立ち上げようと。こうした動き自体はとても良い、というか、こうした動き出しを作るために現代組織では相当なる労力を必要とする。だからこそ、この "灯火" ともいうべき動きを丁寧に扱わなければならない。そうチャンスは多くない。  ところが、この手の動きで直面する一つの事象がある。それはいつの間にか論点が「組織構造」にフォーカスがあたり、そこから抜け出せ

"Googleの20%のルール" の復権その可能性への期待と「兼務」という呪縛

 探索の話を立て続けに。「探索」が組織に一様に必要であるということをここまで述べてきている。  このことを思い考え巡らせているうちに、そういえばと思い出した。「Googleの20%ルール」だ。  もう10年以上前だろうか。このルールの斬新さが、日本にも一定のインパクトを与えたのは。模倣しようとした組織もかなりあったのではないか。ただ、昨今はあまり耳にしない(その後の日本での実態は、私もよく知らない)。  もともとは引用にあるように、新たな創造のきっかけに狙いがあったわけだ

探索とは、知ること (差分型、越境型、探検型)

 たいていの組織において、探索する機会が不足している。「探索適応欠乏症」はいかなる事業にも起こる。事業の継続自体が「目の前のこと」への最適化を自ずと強いることになるからだ。だからこそ、探索と適応を事業、組織を選ばず、強調することになる。  デジタルトランスフォーメーションによる混乱が最盛期にあった頃は、私も探索適応は取り入れる領域は「絞るべきだ」と主張した。「組織の隅々まで、探索せよ」というのは、そのケイパビリティもろくにないところでは土台現実に欠ける話だった。トライアルを

「最適化」と「他にありえる可能性」の間を振り子のように動けるか?

 事業、それから組織そのものに向き合うことになって、はっきりと分かってきていることがある。「新規事業開発」で仮説検証型アジャイル開発を手にして、「デジタルトランスフォーメーション(DX)」で越境型のアジャイル、DXと隣り合わせの「組織変革」で組織アジャイルと、広がる戦線とともに得物も変えてきている。ただ、その芯にあるものは同じ。「探索」と「適応」だ。  説明のために厚く武装された、様々な言葉を剥ぎ取っていったとする。最後に残る言葉は「探索」と「適応」の2つになりそうだ。事業

「プロセス」としてのアジャイルなのか、「アティテュード」としてのアジャイルなのか

 いま、組織と仕事について探索と適応の取り入れが必要であるということ。この語りを日々繰り返している。具体的には探索と適応をまとめて、「アジャイル」と呼び、アジャイルへの形態変化を組織の中の人々と一緒になって取り組む。アジャイルの根源にあるソフトウェア開発の世界だけではなく、開発を越えて組織内にアジャイルという概念を手渡し、伝える。これがこの数年のライフワークになっているし、より広く捉えると20年にわたり向き合ってきているとも言える。  新たな習慣についての語りは、必ず一定の

「探す」だけではなく「作る」という行為を手の内に持つ

 「考えてもよく分からないから、云々唸り続けるより、実際にやってみよう」こういうスタンスが無いから、終わりなきミーティングを重ねることになってしまう。手の届く範囲を調べたところで、あるいは手元にある情報だけで、考えを巡らしたところで、筋の良さを感じられないならば作戦を変える必要がある。  ところが、えてして考えた結果のアウトプットがいまいちだから「もっと情報を集めてみよう、もっと考えてみよう」に倒してしまう。  それでもダメだと、「調べ方や考え方がなってないのではないか(ど

アジャイルによって、アジャイルな組織になる

 どのようにして組織のあり方を変えていくか? 大きすぎるテーマだが多くの伝統的な組織がDXの名の下に一様に取り組んでいる。いくつかの業界と企業を越えて、その試みに伴走していると実に様々な洞察が得られる。複数の組織の営みを俯瞰することで得られる共通と差分。その中の一つには、どのような「突破口」を作るかという観点がある。  どのような立ち上げをどんな組織あるいはチームで行うのか。そしてどのようにその活動を組織内で広げていくのか。目指すところも、出発地点の状態も組織によって様々だ

2つの時間帯を使い分けて、「あいまいさ」をマネジメントする

 想像すらついていないところに、私達が辿り着くことはできない。掲げたビジョンが指す状況、状態がどのようなものか。もし言語化できないとしたら、私達は本当のところどこへ向かいたいのか分かっていない。  今までにはない方向へ踏み出すのだとしたら、その先の具体的なイメージを持つことは難しい。明確なありたい姿を表現することができない。だからこそ、探索的な活動が必要ではなかったの?  そう、分からないからこそ探索が必要で、その重要性についての理解は明らかに増している。ひところに比べる