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生きるのがぎこちない

先日、デザイナーとつくるもののコンセプトを考えていて、ふと出会った言葉「生きるのがぎこちない」。自分の中にあった言葉なのだけど、私自身の面持ちを表せていて、しっくりくる。何の話か?

今手がけている活動を俯瞰しての感想だった。私自身5年前に会社を立ち上げて、さらに、先日フリーランスや、所属を越えて複業の人たちが集まれる任意団体(The Agile Guild)を立ち上げた。脱組織化の流れを感じている。個々人がそれぞれの思いと自分の腕でもって寄り集まる、あり方へ。

一方、仕事はチームでの活動が基本となる(私が関与するソフトウェア開発は特に)。ゆえに、個々人が寄り集まる先には、それぞれが自分自身を持ち寄って「チーム」を形成する状況が見えてくる。自分の技術を、経験を、時間を、感情を提供し、共通のミッションを抱いたチームで成果を上げる。一つのチーム(組織)に所属する(belong)時代から、複数のチームに関与し、貢献する(offer)時代へ。

という流れに手応えを感じているのだが、冷静に考えてみると、脱組織→個々の自立→チーム化という流れは、もとより無頼で働いてきた人たちにとっては別段珍しいことではない。新たな概念や組織をわざわざつくってる様子は、遠回りに見えるだろう。何年もかけて、やっとこさという進め方には、ぎこちなさがある。そこで「生きるのがぎこちない」という言葉が降りてきた。

ただ、朝9時に出社して、18時に退社することを週5日繰り返すレールから踏み外していくというのは、相当な勇気がいることだ。というより、そもそも考えつかない。赤いピルをいつどのようにして口にするかは、本人のコントロール下であることは珍しく、偶然に近い。だからこそ、多くの人にとって複業化はかつてない変化への直面であり、それに呼応した仕組みとしてギルドを用意することは社会実験だと思っている。

思うに、既存のレールをひた走るということは、ある価値観の下での最適化である。例えば、私はいろんなケースで、合宿というのを頻繁に行うが、これも、「仕事なんでしょ?オフィスでやれよ」というメンタリティからすると非効率で、ムダでしかない。だが、別の視点からみると「非日常的な場所で、集中的に非日常的な対話をする」ことで、普段考え至らないようなところに到達するという期待が持てる取り組みだ。

レールを降りようとすると、あるいは完全に降りると、こうした「非効率でムダ」とされてきたことが、別の視点ではそうでもないんじゃないかと気付きはじめる。そして、禁忌を踏み越えるように行動を取る(越境)。その時に、ぎこちなさが宿る。それはそうだ、はじめてのことなんだから。子供がはじめて補助輪をはずして、おっかなびっくり漕ぎ始めるように。

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