専門家の憂鬱

 いつもの自分がいる界隈とは異なるところで会話をしてみると、関心ごとが徹底的に合いそうにないなと予感することがある。いわゆる"世間話"を頑張らないといけない感じ。もちろん得意ではない。たいてい、ぐんにゃりとした会話になってしまう。ああ、やっぱり俺は大人になりきれていないんだな(世間話一つもできないなんて)と反省する。

 何らかの専門性に根差す仕事をしているほど、こういうズレを時折感じるのではないかと思う。専門性はどうしてもその人の中心になりやすい。そして、専門性を軸においた振る舞いや思考は、外からするとだいぶ偏りがあるように見える。いわゆる  "ちょっと変わってるね" にあたる。

 面白いのは、専門家は外から感じ取られるほどには、自分のことを専門家と認識していないところにある。もちろん、多少偏りや変わったところがあるとは見られるだろうけど、日頃専門性の外にいる人たちのためにサービスやシステムを作っているのだ、通じるあえるはずだと思っている(私はそうだった)。

 奥さんでも、子供でも、実家の父母でも、親戚でもいい。どう見えるか聞いてみると、たぶん答えは「なんか難しいこといつも言うよね」が多いのでは。

 これは話が噛み合わないというよりは、関心が噛み合わないのだと思う。専門家の関心はたいてい自分の専門性に関することになりやすい。そして、自分の専門性で問いを解釈し、自分の専門性で答えを導こうとする。その結果はあまり芳しいものにならない。「そういうことではない」「なんでわからないの」「めんどくさい」

 …ということを認識しておくだけでずいぶん心理的な安全が自分の中で保たれる。わかりあえなさがあるということを理解していると、人とのインターフェイスを変えられるし、自分の感情に振り回されなくても済む。理解できているだろうか、理解されているだろうかに気を揉み、さらに突き詰めようと、また専門性を発揮してうまくいかない、とかね。

 宇田川先生の本を読んで、そんな専門家の悩みを思い出した。

 ただ、噛み合わなさに悩んでいるのはまだ進みがある方で、専門性とその外側との間にある境界に気づけていない方が圧倒的に多いのではないだろうか。たぶん、宇田川先生の本を読んで、感心する人ほど後者の段階のように思う。

 ということを考えていると、自分にとっての専門性とは何だったのか一つ気付いたことがあった。私にとっての専門性とは他者とのコミュニケーション手段だったのだ。

 全然知らない他者、他社と絡んでいくのは一般的にリスクが高い行為だ。「専門性」とはそのリスクを乗り越えてでも、他者が絡んでも良い、絡みたいと思える目印なのだ。

 そう考えると、専門性とは人との分断を生み出す背景であり、それでいて人との接点を作り出す越境の足がかりになるとも言える。専門性が相手にではなく、自分に何をもたらすかという視点で考えることはあまり多くないだろう。自分をむきなおる問いになる。

 ということで、「ぼっち」ほど、専門性を高める戦略が良いんだと思うよ。

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