20.浜松と伯父とプロペラと

蜜蜂と遠雷の芳ヶ江国際ピアノコンクールのモデルになったのは、浜松国際ピアノコンクールですが、浜松にちょっと縁があります。
また、昨日のブラタモリが浜松で、確証が持てたことがあり、書き始めました。

 2002年だからもう18年前か。伯父が亡くなるまで約1年間、1ヶ月か2ケ月ごとに、母と伯母と時に子供を連れて、富山から浜松へ見舞に行ってました。

 伯父は生まれは金沢で、その後、僧侶だった祖父が富山に移ったとともに、今の高校まで富山に過ごしていたようです。神通中学校、今の中部高校。あのノーベル賞の田中耕一さんの卒業した高校です。

 僕が小学校の頃には、横浜に家を建てそこに住んでました。もよりの駅は二俣川。子供がいなかったので、特に末っ子の母の子供である、僕をかわいがってくれました。毎春休みにはよく遊びに行ってました。祖父が亡くなったのも春休みの時期だったので、お墓参りもかねて。

 バブルがはじける前ですから、90年か91年ごろに、突然、横浜の家を売り、浜松のマンションを買い引っ越しました。横浜の家が坂の上にあり、年取った伯母が買い物に行くのにも大変だったことと、購入したマンションが大きなショッピングモールのすぐそばだったことも、理由にあったかもしれません。

 しかしながら、親戚など全く知人のいない所へ、とうに定年もすぎてたから、70歳近かった思われる時期によく引っ越したなぁと。
生前、なんで浜松へと聞いたら「若い時に住んでたんだよ。」との事。今から思えばさらに、なんで、どんな理由でと聞けばよかったのですが、その時はそれ以上聞きませんでした。

 伯父は、今の中部高校をでてるぐらいですから、優秀な人だったようで、中学のあと軍の学校にいったと聞いてました。また、入院した際は、原因不明の病気だったので、自己呼吸もできず、喉に穴をあけチューブで酸素を供給している状態でした。そうすると、話せない&食べれない様態です。
 頭は亡くなるまで、ボケることなく五十音を書いた文字盤を指さして、会話はできてました。
 看護師さんに、なにか言ってといわれて、文字盤で あいらぶゆ と指す、ユーモアもある人でした。

 さて、前置きが長くなりましたが、伯父が亡くなって3回忌か5回忌の時、なんで浜松だったんだろうねぇ、という話になり、前述の若い時すんでたと聞いたよと私が言うと、伯父の弟が(僕の伯父であり、彼も10年ほど前に亡くなってます)、「軍隊の技官で、ゼロ戦のプロペラを設計してたと聞いた」との事。
 その時は、いや、ゼロ戦は三菱の名古屋だろう。(ちょうど、ジブリの風立ちぬをやってた時だったんで)ユーモア好きだった伯父ですから、そうやって弟さんをからかったんだろうと、その時は思ってました。

 それが、5年ぐらい前でしょうか、友人がFacebookでトヨタ2000GTが欲しい、みたいな事を書いてまして、懐かしく思い、ウィッキペデアで調べてみますと。

関連する部分だけ、抜粋しますと。
・2000GT(にせんジーティー)は、トヨタ自動車とヤマハ発動機が共同開発し、ヤマハ発動機への生産委託で1967年から1970年までトヨタブランドで生産されたスポーツカータイプの乗用車である。

・2000GTの高性能エンジンや良質な内装には、ヤマハ発動機のエンジン開発技術や日本楽器の木工技術が大いに役立てられている。ヤマハ発動機は戦時中に航空機用の可変ピッチプロペラの装置を製造していた技術・設備を活用するため、1950年代中期からモーターサイクル業界に参入して成功、高性能エンジン開発では10年近い技術蓄積を重ねていた。

と、ヤマハ (浜松)と プロペラが結びつきました。
昨日のブラタモリでもしっかり、ピアノのボディをつくる木工技術(薄い板を貼り合わせて加工する)が紹介されて、航空自衛隊内の基地資料館に、木製プロペラの実物が保管されてました。

 ウィッキだけの記事だけでは半信半疑でしたが、ブラタモリでプロペラをみて、浜松とプロペラはしっかり結びつきました。
 ウィッキを読んだ時は、伯父とゼロ戦までは結びつける証拠はないだろうなと思ってましたが、昨日のブラタモリの自衛隊内の資料館。戦前のプロペラがあるならば、資料も残っているのでは、そこに伯父の名前があれば。

と言って、一般人の僕が急に訪ねても資料なんて見れませんよね。
探偵ナイトスクープなら、調べてくれるかなぁ。




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