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「奇特な病院」さびしんぼ科

※連作短編小説ですが、1話でも完結しています。

第1外来:さびしんぼ科(担当医 合谷あきら)

「何度目の呼び出しだ?」
 またさびしんぼ達が、俺の元に助けを求めてやってくる。自分で選択した専門だけども、この世には、どれだけさみしいと感じる人が多いのだろう。
 他人に心を開くのは、簡単じゃないことは、医者になる前からわかっていたが。
 家族がいるのに、友達がいるのに、そう思うことが、さらに患者本人をさみしがらせている。きっとそれは、さみしさの感情には関係がない。頭の中でこうであれと縛られている常識のようなものなのだろう。家族がいるからなんだ。死ぬときは、一人なんだ。
 すべてを知っている。そんなやつはいない。
 一方で、自分じゃなくてもわかることは、たくさんある。通帳残高、学歴、職業、年齢、そういうことは、例えば書類に書いて、すぐ相手に伝わることだ。そういうものは、役所か、ハローワークに行くべきだ。それは、俺の管轄外だ。
 俺が扱うのは、伝えることにコツのいる感情についてだ。そこだけに特化している。
 精神科医とも違う。
 なぜなら、ここは、非常にニッチなことを扱う奇特な病院だからだ。さびしんぼ科の他にも、全国どこを探しても見つけられないような唯一無二でユニークな専門性外来を持っていることが特徴だ。
 だけど、俺が受け持つさびしんぼ達は、自分のさみしさを周りに言葉で伝えられずに、俺の元にやってくる。問診票にもある程度は書いてもらうが、人によってさみしさの種類が違うというのが、俺の肌感覚だ。
 俺の元にやってくる患者は、二種類。患者本人が、寂しくて、寂しくて、この病院の存在を知って訪ねてくる場合、周りの人が、ぽつんと一人を選ぶ患者を心配して連れてくる場合だ。
 小学五年生になる息子を連れた母親がやってきて言った。
「この子は、図鑑ばかり読んで、他の子と遊ぼうとしないのです」
 俺は、またこのパターンかと思った。どうして群れることをよしとするのだ。別に好きにさせてあげればいいじゃないか。それも書類に書けることだ。群れない子供と。
 俺は、できるだけ丁寧に男の子に話しかけた。
「さみしいかい?」
「全然」
 俺は、母親の方を見て言った。
「本人が、寂しいと言い出したら、また連れてきてください」
 母親は、納得がいかないという顔をしながら、
「また連れてきます」
 と言って帰っていった。
 こんな患者を扱うのは、この奇特な病院だからだ。
 最近増えているのが、高齢者のさびしんぼだ。
「一日誰ともしゃべることがないのです」
「どういうときに、一番にさみしさを感じますか?」
「夕暮れを見ているときです。今日も一日何もできなかったと悲しくなるのです。あと寝るときに、明日も今日と同じ一日を過ごさないといけないと思うと、とてもさみしさを感じます」
 俺は、こういう患者には、必ず言うことにしている。
「孤独は、気楽です。誰にも文句を言われず、どこに行くのも自由なのです。さぁ、あなたは明日、自由です」
 さびしんぼ科の主な処方箋は、誰に言っても鼻で笑われるようなさみしさを話す相手に俺がなることだと思っている。
 さびしんぼ科は、愚痴は扱わない。奇特な病院は、細かく専門医がいるので、さみしさだけに専念することができるのだ。
 一番厄介なさみしさだと俺が考えるのは、人といるときに感じてしまうさみしさだ。
 そういうさみしさを感じている人は、大抵ここに来ても、何も積極的には語ろうとしない。
 一緒に来た人物の方が、積極的に話す。
「この人は、寂しい人なのです」
 そう言われて、患者は下を向く。
「すいませんが、席をはずしてもらえますか?患者さんと二人きりで話させていただきたいです」
「私が説明しないと」
「大丈夫です。ご本人から話を聞きたいのです」
「私がいては話せないのですか?」
「当院では、ご本人さんのお話だけを聞く機会を必ず設けているのです」
「そうですか」
 嘘も方便という言葉がある。
「人といるときに、さみしさを感じますか?それとも一人でいるときに感じますか?」
 患者は、黙って下を向いている。
「あたたかな記憶として残っている景色はありますか?」
 患者は、少しだけ顔を上げ、じっと俺を見る。
「また来てください」
 俺は、一回で診療を打ち切ったりしない。ここへ来れば、何かが変わると思えば、また来るだろうと思っている。
 そして、人のさみしさなど、本当は、治療などできないと思ってもいる。
 さみしんぼの療養になる本当に大事なことは、「話が通じた」と感じることができる時間を誰かと過ごせるということだから。

お大事に。

(第2外来は、いらいら科です)

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