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”正解”じゃないとだめですか?クドカンが山田太一から譲り受けたタイムマシン『不適切にもほどがある』

*この文章と埋め込まれている動画は『不適切にもほどがある』第7話までと山田太一作品のネタバレを盛大にしています。それぞれぜひ本編をご覧になってからお読みください。

Ⅰ、脚本家 山田太一

 令和5年11月29日、脚本家山田太一が逝去した。浅草生まれの山田太一は、松竹に入社してから大船にあるその撮影所に近い川崎に居を構え、多摩川周辺の東京近郊の家族の物語を書き続けた。そして川崎の施設で最期を迎えたそうである。山田太一は言わずと知れた日本を代表する名脚本家のひとりである。『男たちの旅路』『岸辺のアルバム』そして『ふぞろいの林檎たち』とそれぞれの時代の日本の社会、家族、ひとびとのこころにある鬱屈と暖かさとそして希望を描き続けてきた作家だ。その台詞は独特で、自分の心情をしぼりだすように登場人物が相手に語りかける、がその独白は必ず対話につながるのである。それまでひとりひとりのこころの中にしまわれていた疑問や抗議や賛同が周囲の人間に直接ぶつけられていく。代表作『ふぞろいの林檎たち』で描かれているのは、学歴偏重社会、性別役割分業、核家族、企業戦士などの戦後日本の高度経済成長期に築かれた価値観と若者たちとの葛藤である。しかし最後まで正解は導かれない。若者や父親や姑やOLが抜き差しならずにはまりこむ共同体のしがらみも、個人の葛藤も欲望も最後まで見てもなんの解消もされず、これが「正解です」と差し出されるものはなく、カタルシスはほとんど得られない。

 実は現在放送されている宮藤官九郎ドラマ『不適切にもほどがある』を見ていると私はこの山田太一の一連の作品を強烈に連想してしまうのだ。

Ⅱ、山田太一作品の時間移動

1、『終わりに見た街』

 この山田太一作品は意外にもSF的設定を多用することにも特徴がある。テレビ朝日のスペシャルドラマとして放送された『終わりに見た街』、大林信彦により映画化され、イギリスで舞台化そしてさらなる映画リメイクもされた(『異人たち』2024年4月19日公開予定)映画『異人たちとの夏』。前者は1982年の2家族による、太平洋戦争中の1944年の東京へのタイムスリップが描かれ、後者は1988年バブル時代の脚本家が地元浅草で1960年に若くして事故死した両親と出逢う。くわしくはぜひ本編をみていただきたいのだが、『終わりに見た街』のタイムトラベルはなかなかに過酷である。飽食の時代から戦局がいよいよ行き詰まる日本社会に突然放り込まれた家族が、いずれ来る敗戦という未来を知りながら戦時中の東京への表面的な適応をはかっていく。しかし軍需工場の勤労奉仕に駆り出された娘は現代っ子から容易に国粋化していき、文化人である父親も海千山千の駆け引きで物資を確保しなければとても家族を支えることができない。きたるべき未来を知っている強力なアドバンテージを持っているはずの現代人も、情報を極端に遮断され視野狭窄に陥った共同体のなかにおかれては圧倒的に無力であり、容易に集団心理に巻き取られていく現実が描かれる。つまり過去の失敗を知識としてもっていても我々は簡単に同じ過ちを繰り返しかねないという警句がこの作品にはこめられていた。

 対して同じタイムトラベルが描かれているこのドラマ『不適切にもほどがある』はベクトルが逆である。1986年(山田太一作品で言えば『ふぞろいの林檎たちⅡ』放送の翌年である)から2024年にやってきたパワハラ体育教師小川市郎(阿部サダヲ)は街で見かけた上司と部下のやりとり、TV局のバラエティ番組制作、グループLINEのローカルルールに距離なくガンガン文句をつけていき、不自然だ、考えすぎ、古いというだけで昔の価値観を否定するなとむしろ周囲を昭和色に染めていく。この作品にはフェミニズム社会学者向坂サカエ(吉田羊)とその中学生の息子キヨシ(坂元愛登)という昭和にやってきた令和の現代人である登場人物もいる。しかしここでも『終わりに見た街』と同じく、昭和の野蛮でどう猛な価値観にこの親子は巻き取られていき、不登校児であったキヨシは生き生きと昭和の中学校に適応していく。同様の描写は『終わりに見た街』でもあり、落ちこぼれの不良少年がどんどん右傾化しついには日本帝国陸軍に入隊する描写がある。サカエも中学生時代の元夫・井上昌和(三宅弘城/中田理智)が同性への恋愛感情を持っていたことに動揺し、「それは単なる女性嫌悪!あなたはね、非モテってだけで同性愛とホモソーシャルを取り違えてるの!」とおそらく令和ではとても言えなかったような同性愛嫌悪を噴出してしまう。つまり、どちらの作品においても過去の旧態な価値観は容易に現代人の意識を染め変えてしまう。『不適切にも…』は現時点において第7話までしか放送されていないが、ここにいたるまで一貫して市郎は周囲を巻き込み、令和時代のひとびとは皆、彼の異邦人的な魅力にからめとられてしまう。

 この物語展開にSNSは失望の声に満ちていた。5年前の大河ドラマ『いだてん』でクドカンが女子体育の普及を題材に主人公の四三の姿を借りて大正時代のジェンダー・バイアスに異議を唱えたときにはSNSは歓喜に沸いたものだ。「オリンピックと落語」をテーマにした大河ドラマで人見絹江や前畑秀子を通じて女性の抑圧と解放が描かれるとは誰も予想していなかったのだ。しかもそれを描いたのはブスやおばちゃんいじりなどホモソーシャルネタ満載の作家性を誇っていたクドカンなのである。クドカンもバージョンアップしている、実はクドカンはフェミニストなのではとTLは大いに沸いた。しかし今回はどうも肩透かしである。昭和からの来訪者市郎が意識改革をするどころか周囲に旧弊な価値観への郷愁を働きかけるばかりなのである。
 だがポリコレや社会における倫理観の表面的変化を描くと見せかけたこのドラマ、本当に描きたいものはそこにはないのではないか。

2、あらかじめ喪われたものたちとの再会

 というのも、このドラマ、第5話になって急にギアがトップに入り始めたのだ。市郎に好意を抱くTV局員 犬島渚(仲里依紗)は市郎の娘の名前を知り、自分の父 犬島ゆずる(古田新太/錦戸亮)を市郎に引き合わせる。実は市郎の娘 純子(河合優実)は渚の母親であった。ここから本作は世の中の不条理や権力に抗えず個人が容易にそれらの犠牲になってしまうという、クドカンが繰り返し好んで描くテーマである「残酷さ」がたちこめ始めるのである(詳しくは拙記事「『そのコは結局運がなかったのよ』笑いの裏に描かれるクドカンの残酷」をお読み下さい https://note.com/papurika_dreams/n/n846e9b8a3e2c)純子はゆずると結婚し神戸に移り、そこで渚を産んだ。結婚に反対していた市郎だったが、孫娘に会いに祝日である1995年1月16日に純子たちの住む神戸に向かった。市郎は娘たちと和解し、深夜まで長田区のセンター街で飲んだあと、翌早朝に純子とともに駅まで向かい、そこで阪神淡路大震災に被災して2人は死んだのである。長田区は建物の倒壊だけでなくガス配管の破損による同時多発火災が起き多数の死者が出たことでも有名な地域である。二人の死の瞬間を想像して私はこころの底が冷えるような気持ちになった。それだけではない。小川家は市郎の妻もまた、幼い純子を残して若くして病死している。小さな娘を残して母親が他界する悲劇をこの家族は繰り返しているのだ。

3、『異人たちとの夏』

 そしてここにも山田太一作品のエッセンスは生きている。突然、過去から亡くなったはずの若い祖父と母がやってくるという渚の体験はそのまま山田太一の『異人たちとの夏』を下敷きにしているかのようだ。浅草演芸ホールの寄席に立ち寄った脚本家 原田(風間杜夫)は前方の客に見覚えのある姿を認めた。男は振り返ると「よお、出ようや」と声をかけてきた。男は若いころのままの父(片岡鶴太郎)で招かれるままアパートの階段をあがるとそこには若く美しい母(秋吉久美子)がいる。華やいだ美しさで母は「どうぞ、入って」と原田を歓待する。両親が死んだ頃の年齢に近づいた原田はほぼ同世代である両親のもとで何くれと世話をされながら夕餉を過ごし子どもに戻ったような気持ちになる。つまり、第5話で明かされたエピソードにより、渚にとって市郎と純子の時間移動はタイムスリップというよりも、もうこの世にはいない人たち、幽霊たちとの邂逅なのだと言えることがわかる。

 しかしこの『異人たちとの夏』は"失われたもの"との単なる心地よい再会だけを描いていない。原田は両親との再会と同じ頃、マンションの隣人ケイ(名取裕子)と知り合う。嵐の晩にシャンパンを片手に突然チャイムを鳴らし「一緒に飲みませんか?」と誘うケイを煩わしく思い、原田は「仕事中なので」とすげなく追い返してしまった。だが再びケイとマンションの中で顔を合わせるうちに2人は関係を結ぶようになる。あるとき、原田はマンションの管理人にケイはすでに死んでしまっていること、あの嵐の晩に自室で自ら命を絶ったことを知らされる。幽霊は両親だけではなかった、あの晩見知らぬ他人とのかかわりを煩わしく思った自分の冷たさからケイが全てに絶望し自ら命を絶ったことを原田は知り後悔する。それまでの原田には他人と無用に関わらないこと、適切な距離をとりお互いの領域を守ることが”正解”であった。しかし両親との親密な暖かい時間からどこかひとを求める気持ちになっていた原田はケイという人物を必要としていく。彼女は原田にとっていまやその存在そのものがかけがえのないものとなったのだ。幽霊であっても彼女への愛を誓う原田にケイは自分の胸をチーズナイフで切り裂いた傷を見せつけ「甘いことを!!!」と叫び消えてしまう。

 以前、SNSでこの映画の感想に「風間杜夫の見知らぬ女性の訪問を容易に受け入れない態度に安心した」と原田の初めの反応を紳士的だと肯定的に見る意見があって私は驚いた。どう考えても山田太一はあの対応を現代人らしい冷たさとして否定的に描いていた。なぜなら山田太一は自らの作品で一貫して「人とは面倒なものである、割り切れず、白黒つけられずそれでもつきあっていかなければならないものなのである」というメッセージを描き続けてきた人だからだ。

Ⅲ、描かれ続ける”不正解”

1、『ふぞろいの林檎たちⅡ』

 市郎がやってきた1985年を舞台にした『ふぞろいの林檎たちⅡ』に印象的なエピソードがある。流通センターに就職した仲手川(中井貴一)は厄介な上司 相馬(室田日出男)に困らされていた。頭をはたく、つかむなどの暴力、相手の尊厳を傷つける暴言、恋人の晴江(石原真理子)との交際に口をつっこむ、お尻をさわるなどのセクハラ、相手を不快にする言動を繰り返しながらなぜかしつこく仲手川に絡み続ける相馬は、市郎が可愛く見えるほどの不適切な言動を連発する。しかしこの手の行動はやはり当時から相当嫌われてはいたのである。とうとう腹に据えかねた仲手川はある日、相馬を殴ってしまう。それに対して快哉を叫ぶかと思った晴江は一転、意外にも「あの人、いい人よ。寂しいのよ」と相馬を庇う。団塊世代である相馬は金の卵として中卒で集団就職しがむしゃらに働いてきた。しかし息子が早稲田の政経に合格し一流企業に入社して父親としての権威を失ってしまった。そのため、早くに父を亡くした仲手川に息子の姿を見、父親代わりのような気持ちを相馬はひそかに抱いていたのである。もちろんこれをもって山田太一はこのようなふるまいを正当化したいのだ、と断じるのは早い。描かれている相馬の人物を見ていると(室田日出男の重みのある攻撃性、ネチネチと絡んでくる人間臭さがすごい)厄介なものは厄介なのである。しかし、相馬のこのような言動が完全に封じられたら、この相馬の他者を求める気持ちはどこにいけばよいのだろう。白と黒をつけること、いいと悪いをはっきり分けること、悪いものはこの世界から排斥してしまうことが「正解」なのだろうか。

 正直、クドカンファンの私にとっても『不適切にもほどがある』というドラマそのものの質は手放しで褒められるものではない。最新回の第7話では、あまりにも儚い人生をおくる母を哀れに思う渚が、純子を買い物に連れ出し、最新のファッションに身を包ませ、イケメン美容師(岡田将生)とのデートをセッティングする。前述の原田のように、渚には17歳の純子に幼いころに母の面影を見ながら思慕を寄せる気持ちやその運命を変えられないもどかしさが内心大いにあるはずである。しかし、ドラマは肝心のその描写をすっ飛ばしてそれこそ80年代のトレンディドラマのように純子とイケメン美容師のデート描写に費やした。こんな一日を過ごしたところで、20代でその人生を終えてしまう純子の悲劇が薄れるわけもないだろう、渚はなんでこんなにのんきなのだと私は別の意味で肩透かしをくらってしまった。どうもここまでのこのドラマは、市郎に影響を受けて引き出される本音が「ほんとは上司に叱ってほしい」というべたべたとした依存心だったり、市郎の見出す”正解”が「自分の娘にできないことはしない」というルール(娘に性加害する父親は少なくない)だったり、普段のクドカン作品らしくない安直さがある(そこは彼自身も当初は”正しい”物語を描く気負いがあり調子がくるっているのかもしれない)。したがってこの作品がはたして山田太一ドラマほどの余韻をもって終えられるかは未知数である。

 しかし、ドラマとは”不正解”を描いてみせるものなのだとの思いはやはり両者の作品づくりの根底にある。無残な敗戦という結果を知っている未来人が”正しさ”を過去の人間に説いたとしても無力だったように、”正しさ”を兼ね備えて過去にやって来たサカエが元夫のセクシャリティの源泉を知って、差別的発言という”間違い”をおかしてしまうほど動揺してしまうのは理解できる。私はそうであるべきだと言っているのではない、許すべきだと言っているのではない、そこには正解ではなく、間違いが描かれているのである。原田が美しいがどこか心に弱さを抱えていそうな見知らぬ女性を自分の部屋に招き入れなかったのは”正解”だった。しかし、彼はそのためにケイというかけがえのない存在をあらかじめ喪うことになったのである。それは本当に正解なんだろうか?動画内の相馬を見たら現代のこころある人たちは、目をそむけたくなるほどいやな気持ちになるかもしれない。私もこんな人物とはなるべく距離をおきたいというのが本音である。しかし見た人が心地よくわかりやすく手本になる人物を描くのがドラマの役割なのだろうか。ひとの寂しさではなく、割り切れなさではなく、互いに迷惑をかけずなるべく人を傷つけないという”正解”を描けばそれは優れたドラマになるのだろうか。

 繰り返しになるが人間というこの厄介なものの割り切れなさを『不適切にもほどがある』というドラマが今のところ描けているか個人的に疑問ではある。しかし曖昧な、答えの出ない、どちらつかずの気持ちを否定的にとらえ、はっきりとした態度をとらない、見ている側の幻滅を勝手に相手の罪だと責めるフィクションへの姿勢が最近のSNSには目立つ。昭和や平成の価値観が否定されたとしても、あの時代から人は生きていて、そしてそこに残してきたかけがえのない思い出も否定できない。そうであれば、人の中に割り切れない思いば残るのだ。その割り切れない思いをどうするか。こうであるべきだという未来を描くのも、答えの出ない戸惑いを描くのも物語の役割だろう。

 クドカンのタイムマシンはこの先私たちをどこに連れて行ってくれるのか。正解を求めず私は見守ろうと思う。

 

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