個人の募金なんて意味がないと思っていた

令和6年1月1日に能登半島地震が発生しました。
すでに多くの被災者がおり、また日に日に明らかになる状況や二次災害、死者の数に胸を痛めます。
家屋の倒壊や土砂崩れによる道路の分断、その他インフラの機能停止が起きており、多くの人による救出活動や復旧作業が行われています。頭がさがります。

被災地にいない私たち個人にできることはあるのでしょうか
と考えます。

※やや長文です。太字の箇所を追えばざっと理解できるように書いています。

私の家の場合、地震発生の初日から、その繰り返し報じられる緊急地震速報に子どもたちが過度に不安にならないよう、放送を積極的にはみないようにしたところなので、言い方を変えれば、
私は被災地とつながらないようにした
といっても変わりないような気がします。

私は、東日本大震災の際、私自身が被災地出身だったこともあり、また当時独身で蓄えに余裕があったことから、思い切って50万円ほどの募金をしました。

その際に悟ったのは、
個人が募金をしてもたかが知れているので、やってもやらなくても総額にあまり影響がなく、それならば募金せず自分のために使った方がよい
という気付きでした。

何より、募金先で分配されて何らかの支援に充てられるという不明感があるため、もしやるとしたら、知り合いに直接渡す方が実感が多く、そのほうがよいのではと思います。
これは誰でも考えるようなことで合理的ではあると思います。

実際、芸能人や有名人による募金、また他国からの義援金として数百万、数千万、それ以上の単位を目にすると、先の考えは妥当であると思ってしまいます。

今回の能登半島地震においても私は先の考えではあったのですが、状況を知ると
それでも何らかできることはないのだろうか
と考えます。

胸を打たれたのは、少なからずのYouTuberの行動です。
大御所のような方や、お年玉をもらっているような未成年の方も、彼らの行動や言葉には、善や偽善をおいておいて、私たちを動かすものがあると思います。

私の好きな言葉に
持っている者は与えなければならない
というものがあります。

どこで聞いたか、何が出典かは忘れましたし、これについては今回はいろいろ語りはしませんが、少し言葉を変えてみました。

すべての者は、各々が持っている能力を、他者に与えなければならない

念押ししておきたいのですが、これは他者から強制されるものではなく、自発的な行動を求めるものとして述べています。

また、例えばですが、以下のように考えました。
私にはそれほどの蓄えもなく募金しても対した足しにならないのかもしれない。
とはいえ、もしこの意志を子どもたちに示すことができたら、将来もし子どもたちが大人になって成功した際に、誰かの大きな助けとなるのではないか。

ということで、私は、
今回、父は身の丈にあった募金しかできないが、君たちが大きくなってまた大きな災害などがあったら、同じように行動してくれるとうれしいな
と伝えました。

きれいごと、エゴのような気もしますが、独身の時とはまた違った気持ちで募金をしたので、本文を書きました。
余裕のある範囲での行動なら、もしさらに何か必要となったときに追加で行動できるといったリスクヘッジにもなりますし…。

もしこの記事を読まれた方にも考えを共有できたらうれしいです。

被災された方は、早く安心できる環境が整うことを願っています。
また、救助や復旧にあたっている方には、最大の敬意を表します。

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