『THE GUILTY/ギルティ』に驚く

 映画は視覚情報が主要な情報として成り立つ媒体であり、鑑賞者は常に情報を目で追いかける。言ってみれば映画におけるSEやサウンドトラックは、ポストプロダクションの行程で後から補うかのように取り付けられる要素にすぎない。そのため映画において、キャメラは視点の所在を変えながら常に人物の動きを追っていかなければならない。しかし音という観点からこの方式に逆らった作品がある。グスタフ・モーラー監督『THE GUILTY/ギルティ』だ。去年の年末に鑑賞したのだが、驚きしかなかった。    


 『THE GUILTY/ギルティ』は緊急通報指令室で働く電話オペレーターが対応する電話越しの人の声と、オペレーターの声だけで構成が成り立つ。鑑賞者は電話オペレーターの声と表情、そして電場越しから聞こえる声だけを頼りに情報を拾っていかなければならない。そのため鑑賞者は電話越しの人の表情や状況を視覚的に読み解くことができない。
『THE GUILTY/ギルティ』において、スクリーンが映し出すのはオペレーターの表情と行動だけである。そのため電話越しの声は、スクリーンに映し出される空間とは別次元に存在する。更には可視化することのできない音として、電話越しの声はオフの音の役割を果たしている。
確かに視覚情報として、この映画を他の典型的な作品と比較した場合、映画の中に含まれる情報は欠落しているかもしれない。しかしこの情報の欠落が却って、サスペンス性を強めていることも確かである。音を聞くという行為を基盤に視覚媒体であるはずの映画を楽しむという今までにない映画体験を『THE GUILTY/ギルティ』は作り出している。
 これは『サイコ』における幻聴的存在の声の特徴にも類似している。『ヒッチコック×ジジェク』においてスラヴォイ・ジジェクは「目には見えないが、声だけ聞こえる者」(p282)と『サイコ』における音について言及している。加えてスラヴォイ・ジジェクは前掲書 で「映像を制作する者が位置する見えない場所を占めることもできず、表層をさまようことを宿命づけられている」(p282)とも主張している。 

画像引用元: https://eiga.com/movie/44665/

 『サイコ』では声という一定の情報の提示を通して母親の声を鑑賞者に示唆していた。耳で聞くという行為を頼りに、鑑賞者は状況を把握していく。このプロセスが作品を一段と面白いものにしているのだ。『THE GUILTY/ギルティ』ではこの幻聴的存在の声の存在が電話越しの人の声と同じような役割を担っている。例えば、オペレーターのアスガーは車で元夫に誘拐された女性を助けようと、電話で色々な指示を出す。
 しかし実際、誘拐などは起きておらず、女性は後に薬物中毒であることが判明する。音で情報を読み解く行為がアスガーの中で勘違いを生み出し、想像・虚構の誘拐事件はアスガーの頭の中だけで起きていたのだ。また作品を観ている最中、鑑賞者の頭の中でもアスガーと同じような勘違いが発生していく。
 音でしか情報を読み解くことのできないこの欠落が、オペレータの感情と鑑賞者とで同化し、声という音要素が鑑賞者の想像力までにも働きかける。正しく「目には見えないが、声だけ聞こえる者」として、オフの音;電話の声がこの作品では表現されている。
 結論、『THE GUILTY/ギルティ』ではスクリーンに映し出されるオペレーターがいる空間とは別次元に存在する声が、謎を解いていく雄一の鍵 (音情報) となっている。オフの音が想像力を掻き立てているといってもいいかもしれない。情報の欠落が時には五感を刺激する。不思議なものだ。

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