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日本という、このすばらしい国 その7

執筆:ラボラトリオ研究員 杉山 彰

日本列島に漂着した難民を、縄文社会が受け入れた

弥生時代は紀元前1,000年~500年ぐらいから始まり、紀元後300年の古墳時代を迎えるまでの800年~1,300年間続いたといわれています。弥生時代は、縄文時代に比べれば1/10のぐらいの歴史にすぎません。その1/10ぐらいの歴史しか持たない弥生時代に発生した事柄は、縄文時代に発生した事柄の比ではなかったようです。

ちなみに弥生時代という謂れは、1884年に東京市本郷向ヶ岡弥生町の貝塚で発見された土器を、発見地にちなんで弥生式土器と呼んだことに由来します。縄文時代と同じで、縄文式土器を利用していた人たちを縄文人と特定し、その縄文人たちの時代を縄文時代と呼称したように、弥生式土器を利用していた人たちを弥生人と特定し、その弥生人が難民として大量に日本列島に居住するようになった時代を弥生時代と呼称したにすぎないのです。

縄文人のときと同じように、弥生人も単一の民族ではありえません。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝の兵馬俑(始皇帝陵)で発掘された無数の兵士の顔を見れば、その兵士の出身地が、決して東アジアだけではなく、中央アジアから西アジアにまで及んでいたことが推察できます。弥生時代に難民として中国大陸から渡来してきた人たちの出身地は、おそらくユーラシア大陸の全域に渡っていたのではないでしょうか。言語はもちろん、文明や文化も多岐にわたっていたのではないでしょうか。

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日本列島に1万年以上も住み続けていた縄文人は、これらの弥生人を、ほぼ無条件で受け入れたようです。前述しましたが、縄文遺跡から発掘された頭蓋骨や骨などには、争いなどにより損傷したと思われる痕跡がほとんど見あたりません。少なくとも、中国大陸から渡来してきた弥生人と縄文人との間で難民を受け入れる、受け入れないといった類の争いは発生しなかったようです。

争いが起こるようになったのは、弥生人が大量に渡来してきた後に発生したようです。縄文晩期に76,000人ぐらいまで減少した縄文人にとって、大陸から渡来してきた弥生人は「新しい血」を流入するためのありがたい存在だったのかもしれません。少し前までのイヌイット(エスキモー人)の人たちの間では、イヌイットの部落を訪れた旅人への最高のもてなしは、自分の妻を夜の営みに差し出すことだった、という言い伝えを何かの本で読んだことがあります。イヌイットもまた、閉じた世界での同族結婚による少子化現象の危険性を本能的に理解していた民族のようでした。

一見すると不道徳に見えるこの行為が、じつは旅人の「新しい血」を流入させる手段として、結果的にイヌイットの種の保存と旅人へのもてなし、という一挙両得の風習を生み出したといえます。イヌイットの風習が縄文人にあったかどうかは別にして、縄文人と弥生人との人的交流は活発に行われたのでしょう。76,000人の人口が60万人の人口までに膨れあがるのに、それほどの時間はかからなかったようです。それが証拠に、前述した「縄文人=ATLウィルスキャリア」説が関係するのですが、弥生人が渡来するまでは、日本列島に棲む縄文人の多くはATLウィルスキャリアだったようです。

しかし、中国大陸から渡来した難民たちの多くは、ATLウィルスのノンキャリアということがわかっています。現代の中国大陸や朝鮮半島に住む人たちに、ATLウィルスキャリアがまったくといっていいほど見られないからです。ATLウィルスは母から子へと100%遺伝するウィルスではなく、40%ぐらいしか遺伝しないウィルスです。従って、ATLウィルスキャリアの縄文人とノンキャリアの弥生人が結婚し、混血がすすめば、ATLウィルスキャリアは減少していくわけです。

では、現代の日本においてATLウィルスキャリアが多く居住する地域はどこかというと、北海道、九州、沖縄の一部、そして日本列島の周辺地域(主に海岸沿いの地域)や離れ島に圧倒的に多くみられます。しかも、これらの地域に暮らす人たちは今でも漁業、もしくは半農半漁を主体として生活する人たちです。農業を主体とする、つまり稲作を主体とする地域の人たちにはATLウィルスキャリアがほとんどみられないのです。

いうまでもなく、稲作は渡来人たちが日本列島に持ち込んできた農業技術であると言われています。縄文時代にも稲作は行われていたようですが、その多くは焼き畑による陸稲栽培が中心だったようです。少なくとも、現時点で大規模な灌漑技術と土木技術を要する稲作が行われていたという縄文時代の遺跡や遺物が発掘されていないことを前提とすれば、水田稲作が日本列島の広範囲にわたって普及したのは弥生時代以降であるという説に間違いはないようです。

大陸から渡来した難民は縄文人と積極的に婚姻を結び、「新しい血」と共に「水田稲作技術」を持ち込み、従来の魚貝類や果実や木の実を中心とする食生活に、お米などの農作物をプラスすることにより、より多くの食糧生産を可能にしたに違いありません。それまで使われていた縄文式土器は、弥生式土器に変わっていったようです。弥生式土器は、縄文式土器と同じ焼き方の素焼きの土器ですが、縄目の文様がないシンプルなデザインのため、大量生産が可能だったのに違いありません。そして、その弥生式土器は、さらに耐久性や防水性を富ませるために、釉薬を使い、高温で焼き上げる陶磁器に変わっていったのも、うなずける話です。(つづく)

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【杉山 彰(すぎやま あきら)プロフィール】

◎立命館大学 産業社会学部卒
 1974年、(株)タイムにコピーライターとして入社。
 以後(株)タイムに10年間勤務した後、杉山彰事務所を主宰。
 1990年、株式会社 JCN研究所を設立
 1993年、株式会社CSK関連会社 
 日本レジホンシステムズ(ナレッジモデリング株式会社の前身)と
 マーケティング顧問契約を締結
 ※この時期に、七沢先生との知遇を得て、現在に至る。
 1995年、松下電器産業(株)開発本部・映像音響情報研究所の
 コンセプトメーカーとして顧問契約(技術支援業務契約)を締結。
 2010年、株式会社 JCN研究所を休眠、現在に至る。

◎〈作成論文&レポート〉
 ・「マトリックス・マネージメント」
 ・「オープンマインド・ヒューマン・ネットワーキング」
 ・「コンピュータの中の日本語」
 ・「新・遺伝的アルゴリズム論」
 ・「知識社会におけるヒューマンネットワーキング経営の在り方」
 ・「人間と夢」 等

◎〈開発システム〉
 ・コンピュータにおける日本語処理機能としての
  カナ漢字置換装置・JCN〈愛(ai)〉
 ・置換アルゴリズムの応用システム「TAO/TIME認証システム」
 ・TAO時計装置

◎〈出願特許〉
 ・「カナ漢字自動置換システム」
 ・「新・遺伝的アルゴリズムによる、漢字混じり文章生成装置」
 ・「アナログ計時とディジタル計時と絶対時間を同時共時に
   計測表示できるTAO時計装置」
 ・「音符システムを活用した、新・中間言語アルゴリズム」
 ・「時間軸をキーデータとする、システム辞書の生成方法」
 ・「利用履歴データをID化した、新・ファイル管理システム」等

◎〈取得特許〉
 「TAO時計装置」(米国特許)、
 「TAO・TIME認証システム」(国際特許) 等



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