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回想メモ

高3になりかけて、初めて目が覚めたように「進路」というものを考え出す程度にはこれから訪れる大局的人生に対して何ら深い意味を持たず、しかし目前に吹き荒れる盲目なる数々の対面のあらすじに関しては過剰に考える。

“既に知っている”人と話すのが怖かった。
それは誰?
それは相手の方向性を立てる知識教育役を担う人。
学校も、塾も、ピアノも、画塾も、教える人全員。

知らない人の心を圧縮し、見えない感情言語を皮付きの表情と表向きの言葉に添えてサラッと飛ばしてくる。

簡単に言うとこうだ。

「“お前は分からない奴だから”こっちの言う通りにしろ。ついでにアレは“ダメ”だし、コレもダメだし、ソレも“ダメ”だな。“お前は分からない奴だから”分からないお前のために言ってるんだ。“お前は分からない奴だから”やめとけ。」


“お前は分からない奴だから”


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親父が母親にかける言葉は女性軽視の典型だった。(毎日ではない。しかし覚えているということは、衝撃的な出来事だったということだ)

「あれ?お前太ったな?何キロや?何キロ太った?ガハハハハハ!」
「っけっ💢!女のくせに!」
「ほんまにお前は“分からん女”やなぁ💢!バカか?」
「(子供の教育に関して母親に)全部、お前のせいやからな💢?」


このように何度も繰り返される会話によって「男女の関係とはこういうもの」として記憶に定着した。今現在もこの情報を取り入れたまま生きている。

“繰り返す”言語の選択が次の世代に遺伝する。

似たような会話のパターンを聞き続けた結果、ささやかな皮肉を込めて、“幸いにも”今だに【私は容姿を気にしなければならず、私は分からん女で、私はバカで、全てが私のせい】のままでいる。

そして、それと似たような皮肉を言いたがる人間を吸い寄せ続ける傾向は消えていない。

人と距離を置きたい理由は、自分のこれまでの否定的な思い込みを塗り替えられると感じた人間を見つけた実感がいまだネットでもリアルでも得られていないからだ。

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先日、Twitterで私は絵が地味に下手だと呟いた。
それは実際にその通りのことで、当時半年ほど画塾に通っていたことがある。
大したこともない、どんなおべんちゃらを使っても到底上手いとは言い難い出来だった。

隣の席の人が10分で描き上げるようなものを1時間かけて同じレベルで描く。
それなりに良いのが出来たかと思ったら、突き抜けた上手さの生徒が先生から称賛を受けている。

本当にあり得ない上手さだった。
しかも描き上げる速度が異常に速い。
早くて、衝撃的に上手いのだ。

たまたま好きなものと才能が合体すると、人は凄まじい能力を見せてくれる。
有り難い事実のはずだった。
けれど有り難いと思えなかったのは、なぜだろう。

それはいつなんどきも、【私(=女)は容姿を気にしなければならず、私は分からん女で、私(=女)はバカで、全てが私(=女)のせいだった】からに他ならない。

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実在する証明として言える。
誰かが日常で使う言語の選択がいかに重要かということ。
人は対等であるという嘘から始める必要性を感じること。
そして私が刷り込まれたように、繰り返せば最初の嘘はいつか真実に塗り変わる。

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