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私たちみんなに、NAZが必要だ


小さい頃から、
「愛されている」
「生きていていい」という
感覚をもてなかった。

今も正直ない。


環境を考えれば、それが親の愛であることも恵まれていることも、分かっているし、


友人たちだって、ある程度の人は
多分、なんだかんだ私を心から
好きまたは、好きまではいかなくとも
友人、と考えてくれている、と信じている。


今まで付き合ってきた人は、
どうだか分からない。
一瞬でも、
愛してくれていたのだろうか。




とにかく私は、小さい頃から、
自分が生きていていいと
言われている感覚もなかったし、
誰かと心からわかりあっている感覚も
親も含めて、この人は何があっても
私の味方だと思える感覚も
あまり持てなかった。


だから、何かしてしまうと、
いや何かしなくとも、
人に嫌われたり
嫌がらせを受けたりすることがあるのだ、とわかりはじめた小学生時代から
急激にどこかで、
人に嫌われることを恐れていた。


岡田尊司さん風にいえば、
愛着障害・不安型。



 最近になって、わたし自身が、
自分を少しだけ客観的に
見られるようになった。


私は愛を強く求め、また、
愛されなくなる、嫌われるのを
極度におそれているけれど、
でも、誰からも愛されていないなんて
そんなことはなくて、

家族はなんだかんだ守ってくれるし
亡くなった祖父母だって、
いろんなことをしてくれた。
生まれた時の呼吸停止の時も、
お医者さんが、看護師さんが
心臓マッサージしてくれたり、
毎日つきっきりでいてくれたらしいし


わたしは、
いろんなことができないけれど、
そういう私の周りに世話好きの
友人たちが集まるということは、
きっとなんだかんだ、呆れつつも
みんな気にかけてくれている、
ということだと思う。



恋愛の時は、特に不安が強い。
もともと、家族にも友人にも
嫌われるのは嫌だなという感情も強いし、そもそもあまり自分の言いたいことをはっきり言えるタイプでも
ないから、好きな人となると、
何も言えなくなる。



好きな人ができると、彼氏になると、
別に仮面をかぶっているわけではないし、素を見せていない訳では無いけれど、会う度、話すたび、LINEするたび

"この言葉使って怒らないかな"

"本当はこう思ってるんだけど、
言ったら嫌な気持ちするかな"


''でも今までの恋人、
素直に言えなくて我慢して結局
うまくいかなかったし、
ぶつけてみようかな"


"でも、今は仕事繁忙期だよね。"

"この時間だと、仕事帰ってくる時だから、そういう時に、ぶつけると嫌だよね"


なんて考えすぎて言わない、

を繰り返して、たまりにたまって、
勝手に不安を募らせて、
勝手に追い込まれて、
追い込まれた結果、


突然
言いたいことは言おう!なんて
思い立って全部ぶつけて、
相手とダメになるのだった。


それが26歳までの恋愛だった。


嫌われるのが怖くて、
好きな人と釣り合っているのかを
いつも気にしていた。



そんな私には
NAZが必要だ。
いや、すべての人に、
NAZが必要だ。


絶対に、必要だ。




世界には、日本語では一言で
言い表せない単語が存在している。


もちろん、日本語にだって
その文化的背景から生まれた、
他の言語では説明しにくい言葉がある。


わび・さびとかね。



NAZ
(ナーズ:ウルドゥー語)


「誰かに無条件に
愛されることによって
生まれてくる、
自信と心の安定」


(『翻訳できない世界のことば』,
創元社)



 

NAZ


それは、
自分がこの世に生きていていいのだと思える状態、いや
そんなことすら
考えないほどの心の健康な状態、


誰かに無条件に愛されることで
生まれる余裕。
心の余白。


そんな感情を、表す言葉が
ウルドゥー語には存在する。


言葉が存在するということは、
その言語を使う人々には、
そういう価値観があるということだ。


(『翻訳できない世界のことば』,
創元社)


正直、この言葉を知ってからも、

「人に愛されている感覚」
というものは持てないし
いつも嫌われるのが怖いし
かといって、愛されるための努力を、
魅力的な人間で、女性でいるための
努力をしているかと言われると

怠っているわけだけれど、
NAZに努力は関係ないだろう。


誰かから無条件に愛される、


そんなことあるなら、いいなと思う。


親でも、友人でも、
無条件にここにいていいと、
存在していていいと、
何もしなくても愛されているのだと


そういう感情を持てたことは
これまでない。


やっと、27歳くらいになって
私がどんな状態でも、
全く見捨てないで叱咤激励してくれる
友人の存在で、こういう人がくれる愛をNAZというのかなと思える程度になった。



それまで、そんな感覚を
持ち合わせていなかった。


親や友人だけでない。
恋人はもっともっと苦しかった。


頑張らないといけない気がして、
でも、素の自分だとか、
頑張れない自分も出したくて、
とてつもなくしんどくて本当は頑張っていても何事もなかったかのようにしてしまう自分が常にいる中で、


時々何もかも放り出して
甘えたり、苦しんだりしてみたくて、
でも突然そんなことをするものだから
きっとそれで相手に面倒くさがられたのだと思う。


 私が、少しやるべきことを放置して甘え出すと、目が回るような日常で
やるべきことがわからなくって、手が回らなくて、でもやらなきゃいけないことはある程度わかっていて、


自分のためにやるべきことや
やりたいことを後回しにして
「やりたいんだよね」と言ったまま
放置されていると、

「やるって言ってたじゃん」
「だめだよ、やらないと」

と言われはじめる。


親切で言ってくれているのだと、頭ではわかっているけれど、

その回数が増えてくると、

恋人が親になったようになって、

親にも「ダメだ」「みんなはやってる」「怠惰だ」

「○○ちゃんは」
「☆*くんは」

と言われ続けて、

頑張らなきゃ、頑張らなきゃ
の気持ちだけが空回りする。

そうして苦しくなって
「○○くんにそう言われると、
辛くなる」

なんて言ってしまうともう相手には

「分かったよじゃぁ言わない」

なんて言われて、なんだか、
突き放された気分になる。


そして実際、
何も言わなくなった恋人は、
私に何も言わなくなり
私への関心も失った、そういうこと。




でも、誰にも言わないけど
なんとなく苦しい、
頑張らないと人並みにできないから
周りの人と同じように生きるために
水面下で必死に足をバタバタさせる、
そういう状態が長年続いているなかで
恋人にまで、親のように

「やることやらなきゃダメじゃん」とか
「○○するって言ったのにしない人とは会いません」
なんて言われ続けると、


それが優しさだと分かっていても

恋人にそういう風に言われたくない、
まだ頑張らなきゃだめ?

周りの知らない人にも、
久しぶりに会った人にも、
友達にも、親にも

「頑張れ」「頑張れ」と

ぼやっとした応援の言葉を受けて


何に向かって頑張ればいいか
考える余裕もなくしたまま、
目の前の忙しくなったアルバイトとか
目の前で突如発生した何かに
気づいたらのめり込んでいて、


そうでない自分のやるべきことを
怠っていると、
怠っている自分にも気づくし、
周りの人にも「頑張れ、頑張れ」
ばかり言われる気がして、


そういう時に発せられる

「ダメじゃん」


という言葉は、


 周りが見えなくなって、勝手にセンシティブになって、勝手に


「私なんか何もできないんだ」



「何もできないからもっと全部全部、何もかも頑張らないと生きていちゃいけないんだ」



「この程度の、今私がきついなって思ってる程度は周りの人は楽々こなしていてみんなもっともっとちゃんと自立して、いろんなこと挑戦していて、
どうして私は、そういうふうに生きられないのだろう。どうしてみんなみたいな努力ができないんだろう」

となってくる。


そうなるともう、面倒な女だ。




 2019年の、
アルバイトを二つ掛け持ち、
下半期は毎月体調を崩し、
職場を含めた人間関係の調整や
その中での転職活動やこれからのこと
通院と持病に関する役所手続き、
26歳、周りが結婚、出産ラッシュ
という状況の私には、



「頑張れ」

「(私が英語の勉強したい、といったからいわれたのだけど)やることやらなきゃだめだよ」

「俺に会ってる暇あるなら
やるべきことやれば」


と恋人に言われるのは、
かなり神経衰弱した。



 体調崩すのを調整しながら、
塾講をしながら、VCで働きながら
転職活動を考えながら、
役所と病院の往復をして、
当時はまだ断れなくていろんな人から
愚痴や相談を受けたり、
その中で、彼に合わせて
予定を調整して、その日は何もなかったように彼と会うために空ける。

そうしているのに、
それを彼に言えない。


 
転職活動も、
「要らない」「若くない」
「未経験でこの歳で女性じゃぁね、
紹介できる仕事なんてないよ」


なんて立て続けに言われて、


私、誰の役に立ってるんだろう。
私、何で生きているんだろう。

わたし、必要とされてるのかな。


なんて。


当時の私は、今以上にやわで、
脆弱で、簡単に、
生きている理由なんて考える
“the19c中産階級”みたいな、


共同体を必要としているそんな、
ありきたりな人間だ。



生と死なんてテーマを
日常に標榜して、
けれど死を見失い、生も見失う。


仕事をすることで、
何かを生産することで
その生産物によって、
自分という人間の価値を生産物に
返される、


そういう、資本主義の仕組みのなかの
“プロレタリアート”の私は、
生産されたものに
自己の価値を返されて価値づけられるとするならば、
私はどれほどのものを生み出しているのか、


恋人や友人との関係に置き換えれば

相手にどれほどのものを与えているかが、その与えたものによって私の価値が定められるとするなら、私はどれほどの価値を提供していたのか



どれも振り返っても、
何も出てこない。


私は、誰かに何かを与えることが
できているのか、


誰にも何も与えず(don't give)
むしろ、takeだけの人生に、
なっているのではないか。


だから、私は愛されないのではないか、愛される価値がないのではないか。愛されるためには何をすべきなのか、それは、いまのわたしにできることなのか、


そんなふうに、どんどんと、
資本主義社会の、
工場労働観念の渦に巻き込まれて、
本来の資本(お金や時間)を生み出すための活動に至らない。

そして、そうした、
お金を生み出す、
時間を生み出す


そのお金で何をするのか、
時間をいかに効率的につかうのか


つまり、命を何に使うのか
どのように使うのか、


そんなことを考えている時点で
結局それは、資本主義的価値観に
陥っているというパラドクスに陥る。





私が愛されている感覚を持てないこと、

頑張らないと愛されなくなる、


嫌われないように頑張らなきゃ、


彼が面倒だと思わないようにいい子でいなきゃ、


と思う気持ちは、結局のところ、
このパラドクスに陥ってるわけだ。




だから私には、
NAZが必要だ。



「愛される努力」だとか
「愛される女とは」とか


「いい子でいなくちゃ」なんて


これまでに形成したそういうものを、
捨て去ることは難しいけれど、


愛されるためには、
誰かを無条件に愛すためには、

自分の心に余裕がなければならない。


そのためには、実は
「私は何もしなくても、
生きているだけでいいのだ、
愛されるのだ」と意識的に唱えるしか
ないのだと思う。


「ここにいてもいいのだ」と
自分が思い込んで強く生きなければ
結局、人から愛されている、
という強い実感を持つことはできないし、



NAZ、


つまり、

誰かに無条件に愛されることにより
生まれる心の安定を、


愛されていると実感する前に
自分自身でつくりだすことで、
結果的に、その安定した気持ちが
自分の心に余裕をうみ、
周りをよく見てみれば、
誰かが私に無条件に送ってくれる愛に、差し出してくれている手に
ちゃんと気づくことが大切なのだ。


自分を丁寧に扱うために。




まずは、すべての人に、
NAZが必要なのだ。



愛されるよりも、
愛したいマジで



 人を好きになり、
付き合い始めた当初は
この感覚をまだ持てなかった。


だって、愛されたいもの。
愛されるためには何をすればいいのだろうってたくさん考えたもの。




でも多分、

私は無条件に、愛される、

そう思えている人は、

愛されるよりも愛したい、


そんな気持ちで愛が溢れてゆくのだろうな、


やっと27歳になって、
そんなふうに思えるようになった。



 私のnoteを見てくださっている皆様に、初めて訪れてくださった皆様に、


NAZを持ってほしい。そう思う。



#NAZ

#愛される感覚

#愛されるよりも愛したい

#言語

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