31歳になるまでに、「とりあえず行動」



 以前、まだ29歳だった時、


 という記事を書いた。

20代のうちにやっておくと良いだろうと、
思うことだ。


①就職して働く


②アプリや街コンや合コンをすること

③その時の私の、言葉を残すこと

これらは、今でも、思う。

 確かに20代のそれもできれば27歳くらいまでに経験しておくと良い気がする。
(②に関しては、結婚や恋愛を望む人は、ではあるけれど。)



そして、その後、


30歳になってから、20代を振り返って、


およそ、まともに働いて経済的自立をすること、実家を出て経済的に・生活的・精神的自立をすること、結婚や妊娠出産など誰かと共に生き、人の親になる、自分の生きる責任に芯の方まで誰かへの責任が出てくる、
いわゆる、"多くの人が20代くらいで経験する"ことと言われる大きな人生の三大転機以外ほとんど経験したとも思える。

 と振り返り、つまり20代でやり残したのは

働くこと
自立すること
誰かと生き親になること
(=責任を持つこと、増やすこと)
だったなと記した。


 30歳も半年過ぎてもいまだに結局、
達成していないところを見ると、
わたしの人生において
(いや、おそらくほぼ全ての人に当てはまるはずだけれど)

働くこと(働いて自立する)に失敗する、

というのは、かなりの痛手だ。

 それこそ、まあ子どもが欲しければ、
パートナーが必要だし、
子どもの欲しい有無に拘らず
誰かと生きていきたいならパートナーが必要だし、

子を成すことを考えないのであれば死ぬまでに
一緒に生きていく人を探せばいいだろうけれど、
特に女性(子を宿す身体の側)はやはり自分の子が欲しいとなれば、ある程度年齢制限は考える。

わたしだって今はまだ31になる歳だから
今から結婚して子どもが欲しいと言ってもまだ、
さほど"年齢による心配"はしなくて良い歳だけれど、あと4年も経てば、高齢出産に入ってくる。(初産35歳以上だと入るからね)


4年長いようであっという間。"コロナ禍"になってからもう4年経ったのだから。


まあ、但し、出産はわたしにとっては結婚をしなければ考えられないことだし、
結婚はやはり自立していないと難しいとよくわかる。


 最近、もう、子を持つことも、結婚することも、きっとわたしの人生には起こらない出来事なんだろうなと思うようになった。これは、私の努力不足。


 けれど、一方で、29歳から30歳になり、30歳という年齢を7ヶ月生きてきて少しばかり変わってきたこともある。


 今でも、ベッドから起き上がれないくらい落ち込む日々もあるし、親や兄弟や友人の言葉にひどく傷ついて、けれど言った本人は何にも悪気がなくて、悪気がないことが余計に腹が立って、でも寝込むほど落ち込むから相手にこれが嫌だと伝えるんだけれど、本人に何を言っても、全然反省の色もなくて、(悪気がないからね。悪気なく人を傷つけることを平気で言えちゃう人ってタチ悪い。悪意あって言ってる方がよっぽどマシ。)

 そういう日々を繰り返しているし、ちょっとした気温差とか天候とか気圧で文字通り全く起き上がれない一日を過ごすこともしょっちゅうで、正社員だったら欠勤続きだよなと思うくらいの時もある。


 それでも、

 実家にいるから母との距離感は苦慮しているけれど、以前よりはずっと距離を取れるようになったし、落ち込むし寝込むこともあるし傷が治ったりしないけれど、自分の気持ちを自分で回復する手立てを実行できるし


 それから、今でも周りの友人たちが成功しているのを、自分が欲しいものを得ているのを見ると、羨ましくて、自分が惨めな気持ちになることもあるけれど、

 20代の時に思っていたような気持ちとは少し違って、羨ましいけれど、自分の人生は自分でしかないし、他者との比較も時には必要だけれど、自分の人生における目標達成だけで考えれば、

 ゴールに辿り着くのには、
人によって差があるということもちゃんと身体でわかってきたし、仮に先にわたしが欲しいようなものを得た人でもそのあと全く順風満帆に進むわけではない、とか、


 20代の頃、わたし以外の友人は、皆ちゃんと生きていてちゃんと成長していて失敗しないんだ、できないことがないと思っていたけれど、

 どんな人でも大なり小なり失敗はあって、できないこともあってということはわかってきた。


 それにわたしが、
習慣化と、計画を立てることが非常に苦手で
苦手だから克服しようとしていた20代前半
苦手で克服しようとしたけれどできなかったからもうわけがわからなくなって放り出した20代後半を経て、

できない自分、というものを引き受けられるようになってきて、


それこそ『20代で得た知見』とかにも書いてあったけれど、

性分は引き受けるものなんだな、ということもわかってきた。

 性分とは少し違うけれど、特性も。



 性分は生まれ持った性質(先天的)だから直す直さないじゃなくて、引き受けるしかないけれど、

 性格(先天的な部分と環境要因とある)はものによっては変えることもできる、ということもわかってきた。


 それから、

 後悔した時が始める時、というのもわかってきたし(とはいえまだ行動できていないんだけれど)


 どんなに頭でわかってきた、と思っても行動に移さないと変わらないし習慣化しないこともわかってきたし(と言いつつなかなか行動に起こせないのよね)


 わたし自身が行動に移すのに、ものすごい時間のかかる人間(年単位)ということもわかってきたし、


 頭で考えることも大事だけれど、習慣化が苦手なわたしは特に、行動を先にしてしまうことが物事を動かしていく唯一の手段ということも身体で少しずつ感じてきた。


 それから、これはnoteという媒体に非常に感謝しているのだけれど


 人間はそもそもかなり忘れやすい生き物で、

 その人間という生き物史上かなり忘れっぽい特性のわたしみたいな人は、

 とにかくメモにしろ、記事にしろSNSにしろ
書き残しておかないと何も覚えていない。


 SNSという場は、時に過剰になれば誰かを傷つけたり誰かに重くのしかかる場になるけれど、


 少なくともnoteという場所は、


 わたしの個人的感情や考え、今この刹那に思っていることを、(無闇に誰かを傷つけ損なうようなことでなければ)自由に書ける場所で

 書き残しておける場所で、

 わたしは、そんなに頻繁に自分の過去の記事を読み返すことはないのだけれど、それでも時々、ふとした時に何かで読み返した時に、

 鮮明に書いてあればあるほど、その時の自分というものを追体験的に思い出すことができる。(その時の自分、には戻れないし、決して思い出しているそれが、その時のそのままだとは思わないけれど)

 今、書いている、この記事も、半年後31歳になった時に見返したら


 ああ、この時こんなこと考えてこういう時期で、って、書かないよりは思い出すだろう。


 そしてきっと、31歳になって、もう30歳ではなくなった自分は、30歳の時考えていたことなんて忘れてしまうけれど、


 記事を読み返すたびに、ああそうそう確かこんなことがあってこんな気持ちでこんな生活で、大変だったなあ、苦しかったなあって、なると思う。


 以前に、年明けから弟の誕生日がくる2月頃に、

 次の歳のことを考え始める、と書いたけれど

 30歳現在のわたしは、31歳という年齢についてはまだそんなに考えていなくて、けれど30歳を満たせているかというとそうでもなくて。


 でも、不安定なまま生きてることについて29歳だった昨年の今頃よりは、下手にそこまで考え込んだりはしなくて。


 10年前、まだ20歳だった時の自分とはまるで人が違うしでも、根本の性分は変わらないし。


 死ぬまで気づかない可能性もあったから、
人より遅かったとしても気づけた側でよかった、とか

 確かに今から始めるには遅いけれど
今始めなかったらこの先はずっとただ「思ったあの時始まればよかった」ってなるということもアタマだけでなくて幾分カラダでわかるようになってきたし

 あらゆることは、
経験しないと、「わかる」ことはないんだ

逆にいうと、経験したからといって必ずしも
「わかる」かといえばそうではないけれど、
経験しなかったら「わかる」ことはないんだ、


 経験してみて、やってみて

これはやめてみよう
これは別の方法にしよう
これは諦めよう
これはもう少し我慢しよう
これは続けてみよう
このやり方が合ってそう

とかわかっていくものだ、ということを

アタマではなくてまさに経験を通して、
暗黙知的にわかっていくことが人生においては
結構重要なんだとか。


 その上で、わたしはアタマだけで考えがちで、アタマでっかちになりがちだということも、自覚したし。


 ああ、それから、夜ふかし気味だし、
本当に眠れなくて4時5時まで起きたりして、仕事が終わった後とか仕事のない日に12時間とか寝たりするけど

 夜はちゃんと寝ること、6時間でも本当は睡眠が足りなくて8時間は大事とか

 人生24時間365日で進むのは誰しも同じで、そのパイをあらゆる媒体や刺激が取り合っているのが現代だけれど、その時間配分をどうするか、をかなり意識的に、自分の意思で、決めること、その決めるには、「やる」ことより「何をやめるか」が必要なことも、少しずつわかってきて

 実家暮らしの今はそれでもやはり母のパイの使い方にかなり引きずられているけれど、速度が遅いなりに以前よりちゃんと自分の時間を選択できるようになった。


 やりたいことでも、夢でも、やるべきことでも、何にしても、


 「何をするか」物事を考えてから始めるより、

 「いつ何をするか」という"時間を決める"ことから始めるのが良いんだってことが"わかって"きた。わかってきたばかりだからすぐ行動に移せないところがあるけど、行動に移さないと習慣化しないことはわかっているからね。


 31歳になるまでの5ヶ月弱、

 1時までには寝てちゃんと5〜7時間の睡眠はとること

 やりたいことややるべきことのリスト化や言語化より何に時間を使うかの時間配分で物事の意思決定をすることを繰り返して5ヶ月後には多少は無意識にやれるようになっていること

 後悔していることを今から始めてみること

 まとめると「とりあえず行動」(仮に失敗しちゃったとしても続かないことがあったとしても)。


 あ、、あと、特性も相まって、目の前のことに集中して後先考えられないこと、計画を立てるとか将来を見通すことが苦手なので、

 それは直すことは難しいけれど、それを自覚して、目の前のこと、を昨日より今日少し変えてみるとか、思った思いついたその瞬間だけでもいいから変えてみるとかしたい。(あと、計画を立てるのも見通すのも苦手だけど、手帳に予定として立てて、行かなきゃいけないような予定にすれば出かけるのはわかったから、つまり、"やらなきゃいけない"外的必要性みたいなものを作り出せばやれるんだよね)

わたしの場合、

内的動機付けより外的動機付け、というか
mustではなくてhave to(客観的な、ルール的なこと)をつくって動かざるを得ない状況にしないとやらないから。(それこそ、目の前の仕事がなくなったから仕事探さなければならない、とか。結局実家出ていないのだってさ、追い出すって言われつつ親の優しさに甘えて結果追い出されてないからで、前にも書いたけれど、家に帰ってきたら荷物全部出されててもう帰るところはないとかなったらどうにかしなきゃいけない状況になるわけでしょう?)

 自分に甘い人間だから、そういう
"せざるを得ない状況"にならないとやれないから
それならそういう状況を自分で作り出すことに力を注ぐのが良いわけで


 とnoteに書いているだけでは、ダメなのよ。でも言語化すると、頭の中整理されて、わかってくることもあるから。


 とりあえず行動、それから改善。

 それから、せざるを得ない状況、を作る。


人間が変わるには

時間配分を変える
人間関係を変える
住む場所を変える、

とは言われる。

 今必要なのは、まず時間配分を変えること、で行動してから考える、そのために"そうせざるを得ない状況"を自分から作り出していく。


 毎日の時間配分を可視化する
「自分だけの時間」を過ごしてみる
(「自分だけの時間」って難しくて、誰かが以前書いていたけれど、SNS見てるとか、テレビを見てるとかも「他人に費やしている時間」なったりするんだよね、だからと言って無駄、と切り捨てはしないけれど)

 これわたしすぐ行動するのやっぱり難しいんだろうし明日になったら“忘れちゃう"んだと思うけれど、だからとりあえず、文字に残しておいた。

#30歳

#31歳


 とか、長々、書いたけど、ふと、
31歳になるときは、一生に一度の31なった記念日だから 31アイスクリームにでも、行こうかな。

さて、まずは今から借りてきてる本をちゃんと読もう

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