所有、売買、命名、虐待

 先日、今の40代日本史教員で「網野善彦の本を読んだことがない」ときっぱり言う同僚に面食らったことを旧Twitterでつぶやくと驚きの声の一方で、「古典」「ノスタルジーにふけるな(老害)」みたいなリプを返した予備校の日本史講師が現われた。21世紀に入ってからは日本史の動向を追いかける余裕がなかったので、最新動向を教示いただいた。だが、別の場所で「高校教員ふぜいが」「WWW」みたいなことを引用リプで小馬鹿にされたので、怒りを推進力にするタイプの人間である私は、網野氏と並ぶ日本中世史の笠松氏の議論から出発して「キラキラネーム」「幼児虐待」を貫く「所有権という生殺与奪権」に関するエッセイを旧Twitterに32連続で投稿した(約4400字)。短時間で記憶に頼りながら書いたものだが、それを少し手直ししたものをここでも掲載してみます。

 網野氏の『無縁・公界・楽』後、笠松宏氏の『徳政令』が出た。この2冊は日本史からの「所有」の再考察を促すものだったと記憶する。農業を例にとると、自家消費のために作物は生産されるが、経営を成り立たせるには交換あるいは売買を通して必要なものを調達する必要がある。
 現在の高校の「公共」、その前の「現代社会」・「政治・経済」は市場経済を自明視し、前近代(の農業経営)を自給自足的に説明しているが、これは正確ではない。人間の経済は自家消費、互酬そして売買から成り立っており、自分では生産できないものを入手するために自家用・互酬用の生産物が「売り物」に変身した。確かに貨幣を媒介とする売買は現在の我々には普通の行動だが、「店で商品を買うこと」と「自分のものをお金に換える」ことは質が異なり、後者の方が心理的抵抗が強いだろう(これもメルカリなどで弱まっているが)。「自分のものを売って何が悪い?」という返答が聞こえてきそうだ。
 だが、その反問自体が「後ろめたさ」の表出になっている。「自分のもの」の最たるものは自分の臓器だが、2個あるからといって、片方をオークション的に売る人はまずいないだろう。また、かつては自分の所有物として我が子を売る=人身売買もあったが、親は喜んで応じたのだろうか?
 いや、問うべきは人身売買はどういう理屈で正当化され、社会から認められていたのだろうか? 現代なら基本的人権の侵害として即座に否定されるのだが、逆に幼児虐待については人権侵害であっても、家族外の人間が介入を躊躇ってしまい、行政側が批判されるが、その躊躇いの根拠は何なのか?

 網野氏は生産者と被造物、原野と開墾地、夫婦や親と子という現世の縁を無効にするには誰のものでもない場所=無縁の地で縁を断ち切るあるいは無効化する必要があり、やがて現世の縁や身分が積極的に無効化される場所が公界=都市になり、やがて誰でも商売ができるよう=楽になった旨を述べた。
 また笠松氏は生産者と被造物、原野と開墾地、相続の関係を切断するため、モノ・土地を自社に寄進して「神物・寺物」とし、その上でその証文まで焼く鎌倉時代の習慣を紹介されていた。これも見えないが生産者と被造物との間にある根源的なつながり=縁を断つためだと説明している。話を原野の開墾に持っていくと、荒れ地を田畑に変える行為は土地に生命を生む力を与えることであり、開墾者と土地には根源的で消すことのできない関係=命を吹き込んだ・与えた者と被造物の関係が本人とその子孫の間に成り立つ。所有権は命を与えた者だけが主張できる生殺与奪の権利なのだ。
 さらに笠松氏は借金棒引きと拡大解釈されている徳政を「モノが本来の正しい所有者の元に戻るようにすることが正しい=徳にかなった政治」と理解されていた旨を書かれているが、ここにも所有者とモノとの間にある、金銭では消すことのできない根源的な関係があったことを指摘されている。これを踏まえると寺社の祭日に市が立ち、門前町が出現した理由が見えてくる。そこで売られる商品は本来は神仏へのお供えであり、実質あるいは形式上「神物・寺物」となったことが相互に了解されたから売買されたのである。寺社への土地寄進証文が焼かれた理由は戻らせない寄進者の覚悟だろう。

 御成敗式目には売買された所領でも、息子に相続させた所領でも「悔い返し」が認められていた。それは「生産者と被造物」の根源的なつながりは金銭では根本的に切断できなかったことを示している。否、売買は期限付きの使用権であって所有権=最終的処分権ではなかったのだろう。
 田畑に育つ稲や野菜は放っておくと腐るので「使用権」は適用しがたい。しかし、現代でも野菜泥棒や果物泥棒に対して怒りを感じるのは生産者だけではない。第三者も作り手の悲しさは容易に想像できるだけでなく、誰も見ていなくとも、畑や果樹園にある農作物を盗もうと思う輩は少ないだろう。つまり、市場経済が生活のほぼ全域を覆うようになった現在においても、誰からも教わることがなくとも、われわれが「生産者と被造物」の特別な・根源的なつながりを感じているからだとしか考えることができない。別の言い方をすれば、見えない「縁」を21世紀のわれわれは認めているのだ。
 売買によって所有権が移動することを権力が保証しなければ市場経済は回らない。所有権の神聖不可侵性はフランス人権宣言でも表明されている通りであるが、何重にも各種権利が設定されている土地・商品は売買の邪魔でしかない。しかもその権利は経済的なものとは限らないのである。
 被造物は生産者の元に、土地はそれに命を吹き込んだ者とその継承者の元に戻ろうとする。そしてそれはあるべき姿であり、徳に適ったことだった。買うには生産者の了解が必要である。いや、運が良ければ、生産者に気に入られてタダで農作物を「もらった」経験がある人も多いだろう。別の角度から考えてみる。スーパーマーケットやコンビニで人が「安易に」万引きできてしまう一方、無人販売所にある「生産者の顔が透けて見える野菜」を「盗む」のはかなりの心理的抵抗を感じる人が多いのではないか。一口に市場経済といっても、質の異なる二つの交換が行われているのだ。
 無人販売所の例を出したのは、野菜の代価として置かれるお金は「市場価値」にもとづく代価ではないだろう。おそらくは「互酬」としての「返礼」、あるいは次の季節に田畑が実りをもたらすための「賽銭」「寄進」として双方の意識の底で理解されているのではないか。
 話を人身売買とそれに近い養子に戻すと、それらが本人たちと社会から(悲しくも)了承されたのは「命を吹き込んだ・生み出した者はその被造物に対する生殺与奪の権利さえ含む絶対的な支配権を持つ」という了解があったからではないのか、というのが日本中世史家の研究から浮かんでくる仮説である。人間というか個人(家畜)には自分の意志がある。しかし、それを上回る支配権があり、それが行使された時には従うしかない。日本では童謡として広まった『ドナドナ』の仔牛の悲しそうな瞳は、それを不本意ながらも受け入れた仔牛だから説得力があったのではないか(それだけが理由ではないことはだいぶ前に投稿済み)。
 生産者あるいは創造主は被造物に対して生殺与奪の権利を持つことへの了解は『旧約聖書』に登場する有名な多くのエピソードからも確認できるだろう。また日本の刑法に適用は停止されたが残っている「尊属殺人」は創造主への被造物への叛逆だから重罰が規定されていた面もあるのではないか?基本的人権が真理として定着した20世紀後半において、人身売買は禁止され、子どもは保護者の元で養育・保護されるべき存在となった。しかし皮肉にも21世紀に入って見えてきた光景は、保護者(あるいはその恋人)による、場合によっては死に至る幼児虐待・ネグレクトである。
 幼児虐待が事件として報道されるたびに、それを知った人は「子どもを虐待する親」を責める気持ちよりも、問題ある家庭を把握しながら介入を躊躇った行政の対応に怒りを感じているのではないか(筆者にはそう感じる時がある)。介入することができただろうことは親戚も近隣住民も同じはずだ。では行政あるいは親戚、近隣住民たちが介入に躊躇ったのはなぜか。それは家庭内は各家庭のルールで動く一種の独立国・治外法権区域であるとの相互了解があるからではないか。その了解は、自分も自分の家庭では半ば主権者=生殺与奪の権利も含む最高支配権を行使しているからではないのか。
 主権者として虐待を行う保護者に介入するには、それ相応の覚悟が必要だろう。近所づきあいがあるなら、互酬関係を通して「貸し」を作っておかないと素直には応じてもらえないという予測も成り立つ。閉塞した家庭の主権者は容易に暴君になる。だから行政も証拠と覚悟がないと強く介入できない。
 昭和55年(1980年)までのマンガやドラマでは居候や住み込み従業員が家庭内にいる設定が当たり前だった(ドラえもん、コメットさん、ミヨちゃんなど)。実は近代家族は正式な構成員以外の人間を内部に包摂することで、(結果的に)その暴走を抑止していたのではないかと思えてくる。ほとんどの人がモノの生産者ではなく消費者となって生活する現在、支配は保護と切り離せないものであるという了解が蒸発し、親の子どもに対する支配・所有権が剥き出しの暴力として現れたのが児童虐待家庭だとしよう。だが、それは生活が困難で支援の手も届かない特別な家庭固有の現象なのか。
 そうではないと筆者は考える。子どもの支配者としての保護者の権力を牽制するものはどんどん減り、一方で「幸せな家庭」を演出するイベントや装置はどんどん増えているからだ。何よりも「子どもの人生を支配したい」という保護者(主権者)の願いは名付けの局面に現れている。近年、難しい漢字を組合せ、読み方に苦労する「名前」が増えたというか普通になった。学校関係者内では「頓知が利きすぎる」と評される難読名前(あるいはキラキラネーム)。これ以上に保護者=命を生み出した者の権力を示すものはないだろう。名付けに意味があるのか、と思う人もいるだろう。刀剣、茶器や絵画は製作者が命名する場合がほとんどだろう。だが人が生産者ではなくなり、売買を通じて所有者となった時、その所有権=最高支配権を示すのが家畜、船、農地の小字(こあざ)などに見られる命名行為ではなかったか。芸能事務所に付けられた芸名がタレントの人生を左右した例もある。

 網野氏と笠松氏の名前からは想像すらできない地点に、今も暗黙の了解の下にある所有権=被造物への生殺与奪の権利も含む支配権の持続している可能性に私たち(このエッセイ)は来た。これを「新しい中世」と呼ぶのか、時代を超越した「道理」と呼ぶべきなのかは筆者にもわからない。
 最後に言いたいのは1980年代に社会史から提起された問題は、現れ方や姿は変われど、その射程は長いのである。ラテン語の「古典(classi)」とは「(保存するに値すると)分類されたもの」である。決して「古くなった」「時代遅れ」という意味ではない。筆者の網野氏を引き合いに出したX(旧Twitter)ポストに予想していなかった多くの反応があった。引用もなく、記憶に頼ったこのエッセイだが、「所有とは何か?」という問いには中断を挟みながらも考えてきた。
 本来の意味で「古典」とされるものに世代を超えて接し、世代ごとに問題が発見されることを望む。

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