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世界史漫才再構築版50:ナポレオン3世編

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 苦:今回はナポレオン3世です。
 微:幕末物の名脇役だな。
 苦:それは日本の特殊需要だよ!! 本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、六月暴動の後の大統領選挙で予想外の当選を果たし、第二共和政の大統領を務めました(1848~52年)。
 微:「フランスの斎藤知事」と呼ばれたそうです。
 苦:確かに何が言いたいのかわからない点は共通しているけど、前後関係が逆です。1851年のクーデタで第二帝政の皇帝ナポレオン3世(位1852~70年)となりました。
 微:要するに、フランスの石原伸晃だな。叔父と父親の人気と名声を利用して出世するけど、最後はしくじる。
 苦:また身も蓋もないことを。ルイ=ナポレオンは、ボナパルト家の息子として裕福に過ごしていましたが、叔父が1815年にワーテルローで敗れると、父母は別居します。
 微:父親はよっぽど奥さんに嫌われていたけど、その奥さんは「金目当て」だったんだな。
 苦:それこそノビテルだよ!! 彼は母に引き取られてドイツ、イタリアを転々とした後、スイスのドイツ語圏のチューリヒで育ちます。
 微:保険金支払いを拒否するあくどい商法で暮らしていたそうです。
 苦:それはチューリヒ生命で、関係ないよ! ドイツ語が第一言語となってしまい、彼のフランス語からはドイツ語訛りが抜けず、しかもイタリア訛りまでありました。
 微:いや、ヨーロッパの覇者にふさわしい多言語能力だと、なぜフランス人は気づかないのだ?
 苦:真の覇者は屈服した者に自分の言語を覚えさせるんです。一部の保守派や反ドイツ主義者からは「フランス皇帝でありながらドイツ人のようなフランス語しか喋れない」と不評でした。
 微:まあ、東京に進出した吉本の若手が受ける最初の試練です。逆に開き直って栃木弁丸出しのU字工事という手もありますが、ライヴァルの茨城県に当たる地域がないと苦しいでしょうね。
 苦:オマエは審査員のオール巨人か! 1830年から1831年にかけてイタリアに滞在していましたが、その間に兄とともに武装闘争路線のカルボナリ党に参加し、オーストリア官憲から追われます。
 微:追っ手を欺くために、ずっとペスカトーレを注文しつづけたそうです。
 苦:食いものじゃねえよ! 武装組織のカルボナリ党だよ! 逃亡のさなか、兄ナポレオン=ルイは1831年に病死し、翌1832年には従弟ナポレオン2世も病死しました。
 微:行く先々に養豚場や養鶏場があったそうです。
 苦:豚コレラや鳥インフルじゃねえよ!! それに人には感染しないし。
 微:実はルイ=ナポレオンがロシアから放射性物質を密かに入手していたそうです。
 苦:それは21世紀の話!! ルイ=ナポレオンは伯父ナポレオン1世の後継者になる決意を固めてフランスに戻ります。
 微:
 苦:おじさんの看板を頼りに七月王政打倒を訴えて2度反乱を起こしますが失敗し、1840年に終身刑となりハム牢獄に入れられました。
 微:これが養豚場の隣でした。
 苦:豚から離れろ!! 話を戻すと、1846年に脱獄してイギリスへ亡命し、2年後の二月革命勃発後は補欠選挙で当選、議員としてフランスに復帰しました。
 微:これを河合夫妻は参考にというか希望の星にしているそうです。
 苦:ただの金バラマキ夫婦だよ!! そして第二共和政下の1848年12月のフランス初の大統領選挙では圧勝で当選し、大統領時代は「皇子大統領」(Prince-President)と呼ばれました。
 微:滋賀県の皇子山陸上競技場で就任演説をしたからだろ?
 苦:滋賀県民しかわからないボケはいいです、もう。それは血統の良さと、実際の政治経験がほとんどないことを揶揄する意味もありました。
 微:いや、「海の王子」は危険かな、と思って。
 苦:弁護士事務所で頑張ってもらいましょう。当時の政界に人脈が乏しかったのですが、ルイ=ナポレオンはいわば周囲の政敵と互いに牽制し合いながらも大統領として権力を蓄えていきました。
 微:余った分は電力会社が買い取る制度のおかげだね。
 苦:それは太陽熱発電だろ! そして1851年12月2日にクーデタを起こし、翌1852年にはナポレオン1世と同様、国民投票を経て皇帝ナポレオン3世となり、第二帝政を開始しました。
 微:共和政というか国民主権は独裁的指導者を求めてしまうという病理の第一号だな。
 苦:この一連の流れはボナパルティズムの力によるところが大きいです。
 微:大久保利通、近衛文麿、岸信介の血を引く者が首相になる日本のようなもんか。
 苦:ボナパルティズムは、ボナパルト家を再びフランスの支配者に据えようとする政治運動です。
 微:ああ、それならわかりやすい。
 苦:しかしマルクスの著作以来、革命運動を強権でもって弾圧しようとする「民主的な外観を持った権威主義的・反動的な運動一般」のことを指すようになりました。
 微:要するにアベスガだな、得票率28%で議席の6割以上を占めて「民意の代表」ツラして。
 苦:マルクスから引用すると、「歴史的な大事件や重要人物はすべて、いうならば二度繰り返される。一度目は悲劇だが、二度目は茶番劇だ」と。
 微:東京電力や関西電力への批判としても有効だな。
 苦:この言葉を『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』の第1部冒頭に書くくらいマルクスのナポレオン3世への評価は激辛です。
 微:その意味でも暴君ハバネロだな。
 苦:余計な話はいいよ! 第二帝政は1852年から1860年までを「権威帝政」、1860年から1869年までを「自由帝政」、1869年から1870年までを「議会帝政」と区分します。
 微:20年もたなかったのに、細切れにされる時点で「安物」感が滲んでいる。
 苦:「権威帝政」では産業資本の利益援護政策を推進し、また当時のセーヌ県知事オスマンと共に「パリ改造」を1853年から始め、大成果を上げました。
 微:サンコンもたまには役に立つじゃねえか。
 苦:全くの別人のギニア人だろ! 19世紀半ばまでヨーロッパの都市はどこでも不衛生でした。
 微:映画『パフューム』みたら一目瞭然だわな。撮影スタッフに「悪臭班」までいて。
 苦:豚が放し飼いにされるわ、住民は日々に出る生ゴミや汚物を通りに投げ捨てるわ、の状態で、道の窪みや溝にはそれらが溜まっていました。ムッシュ・ド・パリならぬ悪臭・ド・パリです。
 微:『死刑執行人サンソン』じゃねえよ!
 苦:ヨーロッパの川には、動物の糞・廃棄物・汚物などが流れ込み、水質は最悪でした。パリ市民はセーヌ川のその水を飲んだり、浴びるなど生活環境・都市衛生はきわめて劣悪でした。
 微:独身時代のキミのアパートと変わらないな。そのうち畳からキノコが生えるぞ。
 苦:畳ではなくてサルマタです。オスマンは大規模な都市改造を企て、パリに光と風を入れることを名目に、幅員の広い大通りを設置するとともに道路網を整備しました。
 微:××さんの頭もオスマンが改造したのか?
 苦:やめろ、オレは知らんぞ! また街区の内側に中庭を設けて緑化を行い、開放的で衛生的な街を整備しました。凱旋門から放射状に大通りを通し、現在のパリの町並みはこの時に生まれました。
 微:自然と住民の視線は伯父ナポレオン1世の凱旋門に集中すると。しかし、マンガ編集者から「集中線のヌキが甘いね」とオタク的批判を浴びたそうです。
 苦:それは効果です。計画地にある建物を強制的に取り壊し、次に建設工事と都市整備により経済を活性化したわけです。これは産業革命後のフランス経済界の要請にも沿うものでもありました。
 微:この時、政府と業者を仲介したのがスガ長男でした。
 苦:いつの時代だよ! うまく活用したのがパリ地下の岩盤です。地下の下水道整備以外にも、建築石材を切り出し、それを活用させて町並みの色を統一しました。
 微:確かに大理石だらけのギリシアは遺跡であっても圧迫感が強いもんな。
 苦:我々がイメージする「花の都パリ」はオスマンによって生み出されたのです。
 微:臭い「鼻の都」から「花の都」になったんだな。
 苦:まあ、そうです。さらにオスマンの改造により、パリ市内の物流は大きく改善され、さらにはしばしば騒乱のもととなっていたスラムを排除するという目的も達成されました。
 微:いつの時代も都市再開発の目的は利権配分かそれだもんな。
 苦:有名なところでは、19世紀半ばまで貧民と病人が住み着いていたノートルダム大聖堂のあるシテ島は、パリの清潔な観光名所に一転したのです。
 微:中途半端にやると天王寺公園とフェスティバルゲートみたいに共倒れだもんな。
 苦:「王様は裸だ」を言ってはいけません。整備されたパリの街は「世界の首都」と呼ばれるようになり、フランス国内にとどまらず各国における都市建設の手本とされました。
 微:ってことは、改造前のパリは「世界の大阪」だったんだな。
 苦:首都の大規模な改造は、ナポレオン3世の威光を高め、第二帝政の寿命を延ばしたといえます。
 微:通天閣が一応、エッフェル塔をモデルにしているように、やっぱ大阪って売っている激安品もパチモンだけど、街そのものがパチモンだもんな。
 苦:さて、ナポレオン3世の対外政策ですが、1853年のクリミア戦争にイギリスとともにオスマン帝国側で参戦してロシアを破り、パリ条約で世界にフランスの力を見せつけます。
 微:陸軍は頑張ったけど、海軍はボコボコにやられたんだよな。
 苦:1856年にイギリスに便乗してアロー戦争に参戦して清朝を屈服させます。1858年にインドシナへ出兵してコーチシナ植民地を獲得するなど、伯父の軍事的栄光の記憶を最大限利用します。
 微:フランスとベトナムの関係って、ルイ16世に遡るんだよな。
 苦:はい、阮朝ができる時ですね。そして1859年のイタリア統一戦争ではイタリアを支援し、プロンビエールの密約に基づきサヴォイアとニースを獲得します。
 微:サビオとジュースしかくれないなんて、献血以下だな。
 苦:救急法の講習会レベルのボケを入れるな! さて、1861年にはメキシコ出兵を強行しますが、ファレス率いる共和軍やアメリカの抗議により1867年に撤兵しました。
 微:「不可能という語はフランス語ではない」んじゃなかったのか?
 苦:この時、第二帝政はジャーナリズムの罵倒によって崩壊に向かったとも言えます。
 微:文春砲が炸裂したそうです。
 苦:いつの話だよ!! しかし1867年に運良くパリ万国博覧会開催となり、支持率も回復しました。
 微:オリンピックで支持率回復しなかったスガの立場はどうなるんだよぉ~。
 苦:そして運命の普仏戦争です。まあ、これも元はといえばナポレオン3世がスペイン王位継承問題に要らぬちょっかいを出したことが原因なんですが。
 微:夫婦ケンカも夫の余計な一言から始まるもんだよ。
 苦:ビスマルクの計略=エムス電報事件で巻き込まれ、序盤から劣勢、セダンの戦いに自ら出陣したんですが、持病の腎臓結石のために動けず、プロイセン軍の捕虜になりました。
 微:そんなことなら、最初から「欠席」すれば良かったんだ。
 苦:文字化しないとわからないシャレはいりません。講和条約のエグさからパリ市民の反感を買って失脚し、第二帝政は幕を閉じます。
 微:まあ、泥は全部、臨時政府のティエールがかぶってくれたからいいじゃないか!
 苦:完全に他人事ですね。1871年3月にドイツ経由でイギリスに亡命し、ジェニー元皇后、ルイ元皇太子、使用人数十名とともにロンドン郊外チズルハーストの邸宅で暮らしました。
 微:ウジェニーが亡命直前に巨額の皇室財産をスペインに移しておいたおかげだけど。
 苦:そして持病が悪化し、1873年1月にキャムデン・パレスで死去しました。やはり、若い頃の苦労もですが、一応「フランス国民の皇帝」ではあっても、他国との外交に苦しみました。
 微:革命家を自認し、ヨーロッパ各地のナショナリズム運動を支援してたしな。ウィーン体制の破壊を目指したのに、ウィーン体制的なヨーロッパ君主とおつきあいしようとした矛盾。
 苦:1848年革命はウィーン体制を崩しましたが、各国の王朝はそのままでした。「格」と正統性で見劣りするんですよね、どうしても。
 微:由緒正しい国王と「元脱獄囚」じゃ、対等な関係すら無理だな。
 苦:さらにもう一つ、ナポレオン3世は見栄えが良くなかった。背は低くて肩幅も狭い。胴長でまぶたは深く垂れ下がり、X脚。さらに体を左に傾ける癖など、威厳もない。
 微:ナポレオンと違って、無口・無表情で、気の利いた話もできなかったそうだしな。「スフィンクス」というあだ名もドンピシャだよ、誰が付けたか知らないけど。
 苦:閣議でもほとんど発言しませんでした。政敵からには「偉大なる無能」と呼ばれていましたが、政治的目標を達成することには異常に執着しました。
 微:肖像画のイッテしまった目を見たらわかるわ。
 苦:生前から背が低いこと以外、ナポレオン1世にあまりに似ていないので、血が繋がっていないとの観測は絶えませんでした。21世紀のDNA鑑定で「遺伝的つながりなし」の判定が出ました。
 微:それ、皇帝在位中だったらえらいことだな。
 苦:ナポレオン4世こと息子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルトはイギリス軍に入り、1879年にズールー戦争に従軍し、アフリカ南部で戦死しています。
 微:でも、ナポレオン4世死後、ボナパルト家の財産と権利を継承したのがナポレオン1世の末弟ジェロームの孫ナポレオン5世ヴィクトルで、その次が5世の子ナポレオン6世ルイです。
 苦:まだボナパルト家は存在していますが、1997年以降、親子で権利が争われています。父が6世の子ナポレオン7世シャルル、そのシャルルの子がナポレオン7世ジャン=クリストフです。
 微:しかも、親子で跡目争いしているんか。そりゃ政治的復活は無理だ。

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