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世界史漫才再構築版60:ムッソリーニ編

 苦:今回は最初にファシズム体制を築いたイタリアのムッソリーニ(1883~1945年)です。
 微:ヒトラーの足を引っ張って第二次世界大戦終結を速めた最大の功績者だな。
 苦:いきなり皮肉かよ! フルネームはベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニです。
 微:ピカソには負けてるな。
 苦:あれは「寿限無」レベルですから比べられる方がかわいそうです。
 微:その腹いせにドイツにゲルニカ空爆を頼んだそうです。
 苦:時間軸が狂っているよ!! 彼の父アレッサンドロは熱心な社会主義者でした。
 微:さすがユーロコミュニズムの雄イタリアだな。しかし、ムッソリーニといい、ベルルスコーニといい、まあ極端な奴ばかり登場するのはなぜだ?
 苦:息子にメキシコ独立の英雄のベニート・ファレス、国際革命家アミルカレ・チプリアニ、バクーニンの腹心だったアンドレア・コスタから名前を取って息子を名付けました。
 微:昭和の「欽どこ」の「のぞみ・かなえ・たまえ」の三姉妹みたいなもんか。さしずめ高部知子的ポジションか。
 苦:「ニャンニャン」写真の元祖じゃねえよ! 話を強制的に復元しますと、ムッソリーニもこうした父の政治思想から強い影響を受けています。
 微:あれだな、色々な動物のパーツを組み合わせたらキメラができるのと同じだな。
 苦:余計な譬えはもういいよ! 父アレッサンドロは教養高い人物でしたが商売人としてはダメで、家計は苦しかったそうです。
 微:店は万引きし放題だったそうです。「貧しい人からお金はもらえない」と。
 苦:ムッソリーニは9歳の時に入学した厳格なカトリック寄宿学校に入学させられました。
 微:まあ、一週間に一回「ごめんなさい」すればチャラになるから楽じゃん。
 苦:各方面にケンカを売らないでくれよ! ですがその学校の生徒待遇が身分ごと違っていたことにショックを受け、ここで初めて「社会の不公平さ」を実感したと後年語っています。
 微:食べ物の恨みは恐ろしいからな。
 苦:1901年に師範学校を卒業後、ムッソリーニはスイスへ出稼ぎに行きますが、そこでの生活も上手く行きませんでした。
 微:よく調べず、フランス語圏に行ったそうです。
 苦:そこまでバカじゃねえよ。ムッソリーニは浮浪者として何度も国外追放されます。しかし何度もスイスへの入国を繰り返します。
 微:大阪市内の公園の浮浪者狩りみたいだな。2002年のワールドカップの時は大阪市が中之島に「全戸南向き」「即入居可」の仮設小屋作って収容したけど。
 苦:また古い話を。で、その際、奇しくもスイスに亡命していたあのレーニンや彼の秘書バラバーノフらと知り合います。社会主義者としてのムッソリーニは光るものがあったんです。
 微:スキンヘッドにしてたんだな。
 苦:無視無視。第二次世界大戦後の人間には想像もできない話ですが、レーニンからドイツ語やフランス語を学び、彼との交流を通して知見を広めていきました。
 微:ホーキング博士から物理の授業を受けるくらいの豪華さだな。
 苦:しかもムッソリーニはレーニンからは「イタリアで唯一革命を指導できる人物」と政治家としての才能を賞賛されています。
 微:オレも天満繁盛亭でレーニンに「日本で唯一の歴史的ボケができる人物」と評価されました。
 苦:いつだよ! レーニンから直接教えを受けたムッソリーニは政治運動に没頭していきます。1904年にイタリア社会党に入党し、度々当局に拘束されながらも活動を続けました。
 微:レクター博士から拘束服からの脱出方法を習ったそうです。
 苦:人肉の味もですか? 1908年後半に政府を挑発する文章を『ラ・リーマ』に掲載し、そのまま故郷のロマーニャ地方での農民暴動に参加しました。革命的サンディカリストが扇動してましたが。
 微:なんか、レーニンの方向とずれてきてないか?
 苦:暴動鎮圧後、ムッソリーニは脅迫や無許可の集会などを理由に三度警察に拘束されています。
 微:中盤の暴力路線が見えてきたな。この時に警察とも馴れ合いになってたかもしれんな。
 苦:1909年にはドイツ語を話せたことから、当時オーストリア領だったトレントの社会党支部の労働会議所に派遣されます。掛け持ちで機関紙『労働者の未来』へ編集長にもなります。
 微:派遣社員は給料ピンハネされるからダブルワークしないと生活できないもんな。
 苦:当時、トレントのイタリア系住民の運動が組織化されていなかったんです。ムッソリーニはすごい勢いで反オーストリア・反カトリック・反王政を説く左派的な民族主義を喧伝しました。
 微:この辺は民族主義者だな。
 苦:キリスト教民主主義のイタリア語新聞『トレンティーノ』を「オーストリア政府の手先」として猛烈に非難しました。『労働者の未来』の購読者はどんどん増え、発禁処分を受けます。
 微:何を改革するのかわからないけど「改革」を連呼して党勢を伸ばした大阪維新の会みたいなもんだな。TVにはインテリっぽいのが映るけど選挙活動では暴力団っぽいやつばかりいる。
 苦:ちなみに、この時ムッソリーニと対峙した『トレンティーノ』の編集長はイタリア共和国の初代首相となるデ・ガスペリでした。
 微:なるほど。政敵が共和主義を実現するアシストをしたわけか、結果的に。
 苦:1910年、トレントでの成果をみやげに帰国し、党中央の日刊紙『前進!』の編集長に抜擢されます。この時期から既に「ドゥーチェ」の渾名で呼ばれていました。
 微:「号令はただ一つ、定言的で拘束的である。勝つ!そして必ず勝つ!」のオッサンだからな。
 苦:これも信じられませんが、この頃のムッソリーニはマルクスに心酔していました。まあ、レーニンから期待されるくらいだから当然ですが。
 微:父から受け継いだ「政治の目標は社会正義の実現である」という政治的信念は生涯変わらなかったらしいからな、主観的には。
 苦:そのくせ「私に取って、暴力はまったく道理に叶っている。妥協や取引きなどよりよほど道義的である」ともほざいてますから。まあウィル・スミス的な奴ですね。
 微:妻じゃなくて自分がスキンヘッドなところが違うけど。
 苦:いじりすぎないように。 次第にムッソリーニは「民族的団結が社会に階層を越えた繁栄をもたらす」と考えるようになり、民族主義的な社会主義者へ変化し始めます。
 微:これって同質な国民を作り出すために「規格外」の人間を排除するのと紙一重だな。
 苦:第一次世界大戦が始まるとムッソリーニは当初は党の方針に従って中立論を支持したものの、やがて民族の団結のために参戦を強く主張するようになります。
 微:某右翼のおっさんが「世界は一家、人類は皆兄弟」と叫んでいたのはこの文脈だったんだな。しかし、社会主義は戦争では「国内の平等」に足を掬われるな、ドイツもだったけど。
 苦:その流れでフランス政府の資金援助を受け、確信犯的に協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開します。社会党本部は当然ながら彼を追放します。
 微:自衛隊違憲合法論という姑息な逃げをした日本社会党とは違い、イタリアは立派。
 苦:追放後のムッソリーニは「革命的参戦運動ファッショ」「国際主義参戦ファッショ」などの参戦運動を展開し、これがのちの「戦闘者ファッショ」の土台となります。
 微:いや、メッキが剥げただけだろ。Zガンダムならバスク・オム的ポジション。
 苦:ファッショは「束」を意味します。イタリアがようやく連合国側で参戦を宣言すると、ムッソリーニも志願兵として従軍しました。
 微:即採用になったことが「ボヘミアの伍長」ヒトラーへの優越感の根拠でした。
 苦:彼は自分から望んで最前線に配属され、勇敢な戦いぶりで軍曹まで昇進しましたが、重傷を負います。ムッソリーニはこの怪我の後遺症に一生悩まされる事になります。
 微:軍曹が出世の上限ということは、二等兵からスタートしたんだな。「のらくろ」以下か。
 苦:古い譬えはいいよ! 一応は戦勝国だったイタリアですが、1919~20年は北イタリアの諸都市では労働者のストライキが、農村では小作争議が頻発して社会不安が醸成されていました。
 微:一応じゃなくて「名ばかり戦勝国」だろ。失業率も敗戦国並み。
 苦:彼は復員軍人や旧参戦論者を結集して1919年3月23日にミラノで「戦闘者ファッショ」を組織し、戦前とは逆に社会党や共産党と武力をともなった衝突を繰り返しました。
 微:「国民がアホンダラどもを殴りつけ、私刑を加えるという魅力ある見世物を示してくれる限り、この国は輝かしい未来を持つ」と言い放っただけのことはある。
 苦:1920年9月の革命勢力の退潮に乗じたムッソリーニは黒シャツ隊と呼ばれる行動隊を駆使して勢力を伸ばしました。
 微:阪神間と同じで入れ墨を隠すために長袖の黒シャツを着ていたそうです。
 苦:まあ、似たようなもんでかね。1921年までにイタリア北部および中部で勢力を拡大し組織は25万人の規模に膨張します。選挙に参加して議会で35議席を獲得するまでになりました。
 微:子沢山のイタリアなのに、なんで25万人でそんだけ当選するんだ?
 苦:1921年11月のローマ大会でムッソリーニは戦闘者ファッショを国家ファシスタ党に改組して統領に就任し、1922年に数万人のファシスト武装隊の行進、つまりローマ進軍を行います。
 微:匍匐前進して上腕部も鍛えたそうです。そのあまりの異様さにイタリア人はビビりました。
 苦:そんなこと北朝鮮でもしねえよ!! 国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は遂にムッソリーニに組閣を命じ、以後1943年までの約20年にわたるファシスト政権時代に入るわけです。
 微:「ファシズムは議会政党にはなり得ないし、なり方も知らない。もっと言うなら、なってはならない」とも言ってたな。
 苦:首相となったムッソリーニは1923年選挙法改正で議会第一党に議席の3分の2を自動的に獲得する改革を行いました。
 微:ミャンマーでも軍は全議席の4分の1だぞ。
 苦:1925年に労働組合解散令・言論出版取締令を制定します。翌年にはムッソリーニ暗殺未遂事件が多発したため、首相の暗殺には未遂でも死刑を適用しました。
 微:プーチンでもそこまでやらないぞ、表向きは。
 苦:1927年には控訴不可の国家保護特別裁判所を設置して、政敵つまりは共産党を弾圧しました。
 微:日本の大逆罪以上だな。
 苦:こうして独裁政治の基礎を固め、1928年9月に大評議会が国家の最高機関として認められ、ムッソリーニに権力が集中する独裁体制が完成しました。
 微:国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は何をしてたんだ? 脅されていたのか?
 苦:天皇なら「不執政が伝統です」と逃げることはできますが。ムッソリーニは「ヴェルサイユ体制打破」「古代ローマ帝国の復興」を叫びましたが、どちらも現実味の無い話でした。
 微:アベ政権の一億総活躍とか、みんなそうだよ。
 苦:しかし、経済運営を一任されたデ・ステファニは民間企業国有化をすることなく景気を回復させました。もうこれは奇跡的です。
 微:イタリア軍の食糧事情を大きく改善したことが波及効果をもたらしたそうです。
 苦:そこまでの波及効果はねえよ! まあミラノの大企業の協力と地下経済ですかね。国有化抜きで成果を挙げたため、「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きも出ます。
 微:それって、スルガ銀行社長を金融庁が持ち上げたようなもんだろ。
 苦:あのウィンストン・チャーチルさえ「偉大な指導者の一人」と高く評価していました。
 微:それはチャーチル一流の三枚舌だと思う。
 苦:しかし、1929年の世界恐慌の影響で国内の失業者が100万人以上に膨れ上がります。経済危機を打開するために、1935年にエチオピア侵攻を行います。
 微:どこか地中海帝国というかローマ帝国なんだろな。世界線が違うのか?
 苦:しかし苦戦したイタリア軍は当時でも禁止されていた毒ガス兵器を使用したため、国際連盟で追及され、孤立していきます。
 微:この危機をテポドンを発射してクリアするはずだったんだよな、親愛なるドゥーチェ様は。
 苦:国が違うだろ! ムッソリーニは「ファシズムは輸出できない」「ヒトラーは一流国家における二流の指導者、かたや自分は二流国家における一流の指導者である」と自信に満ちていました。
 微:どこのアメコミだよ、って話だな。
 苦:ですが1936年にはスペイン内乱にも介入し、1937年には三国防共協定に調印して国際連盟を脱退、1939年には日独伊三国同盟を結び、ドイツとの提携を深め、泥沼にはまっていくのです。
 微:外貨投資の被害者みたいだな。
 苦:ですが、次第に主導権をヒトラーに奪われ、ドイツのポチに転落していきます。
 微:狂いきれてないだけムッソリーニの方が迷ったんだな。
 苦:1943年7月に連合国軍がシチリア上陸作戦を実行すると、ファシスト大評議会は7月25日にムッソリーニ解任動議を可決し、ムッソリーニは失脚、同日逮捕されました。
 微:で、後任のバドリオ元帥の新政府は、1943年9月8日に連合国に無条件降伏し、舌の根も乾かぬうちにドイツに宣戦するんだろ。さすが「ヘタリア」!
 苦:逃亡したムッソリーニは1945年4月にスイスのコモ湖畔の小村で捕縛・銃殺されました。その死体は愛人のクラレッタ・ペタッチとともにミラノのロレート広場に逆さ釣りで晒されました。
 微:これを聞いたヒトラーは「彼のようになりたくない」と自身の死体を焼却するよう部下に命じたんだよな。
 苦:そんなムッソリーニですがマフィアを弾圧したんで今でも好印象を持たれてるんです。
 微:「オマエがマフィアだろ!!」って誰も突っ込まないのか。フィリピンのドゥテルテ支持に通じるものがあるな。弱者の「恨み晴らします」権力待望論。
 苦:それがもっとひどい権力を呼び出すんですよ。

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