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世界史漫才再構築版10:漢の高祖編

今回から中国史に入ります。え、孔子は中国史ではないんか? いえ、中国思想として扱ったからです。

 苦:今回は漢の高祖こと劉邦です。
 微:昔、ピンクレディーが歌ってたよな。
 苦:「リュウ・フォー!」って、それは違います。ピンクレディーなんか50歳以上しか知りません。
 微:でも今は”りゅうちぇる”の方が有名だけどな。
 苦:興味ないからといって、どうでもいい方向に持って行こうとするのは止めましょう。
 微:いや、時代は『キングダム』、秦の始皇帝なのに、そこを飛ばすのはなあ。
 苦:いえ、マンガ読むなりアニメ見るなりしてもらった方が早いですから。とにかく、漢文の授業で「鴻門の会」や「四面楚歌」は習うけど、本人の説明がおざなりなんです、劉邦は。
 微:大川隆法の「イタコ本」の方がもっとおざなりだけどな。釋さんも黙ってるし。
 苦:そっち方面まで敵に回さないように。まあ、軽く秦について話してから入りますね。
 微:乱作、いや代作先生にもダメ?
 苦:やめましょう。中国というか、中華世界を最初に軍事統一したのが始皇帝で、前221年です。一言で言うと「急ぎすぎ」「何でも統一」が災いして、わずか15年で秦帝国は滅びます。
 微:二言になってるが、オレの聞き間違いか?
 苦:いえ、二つ言いましたが、どちらも必要です。長い戦国時代は実力万能の時代であり、社会も荒れていました。そんな社会で生き延び、上昇するには任侠的な個人と個人の関係が重要でした。
 微:一言で言うと、親分子分とか義兄弟の関係だな。
 苦:まあ、周王朝自体も一対一の主君と家臣の関係を周王が何百と作ってできたものですし。
 微:「封建」というのはそういうものだからな。「封土」って要するに「ナワバリ」だし。
 苦:それを否定して厳罰で以て法治主義で画一的支配で強大化したのが西端の秦でした。
 微:直臣に任せた「放置主義」から中国共産党的な意味での「法治主義」への転換だな。
 苦:誰が韻を踏めと言いましたか! 楚を征服し、東端の斉も併合したのはいいんですが、広大な中国を統治するには文字も法令も度量衡も統一する必要が生まれました。
 微:でも字の発音は統一できずに21世紀にまで至ったけどな。
 苦:性急すぎる統一政策と過酷な工事への動員への怒りが爆発したのが前209年の陳勝・呉広の乱です。この混乱の中、前206年に秦帝国は2代目で滅び、再び混乱と戦争です。
 苦:始皇帝の統一から、劉邦が項羽を破る前202年までは、まさに激動の20年間です。
 微:それを思うと1991年のソ連消滅は小さい事件だったな。プーチン王朝が生まれただけだし。
 苦:国際政治的には大きかったんです。冷戦も終わったし。それにロシア内外でどれだけ暗殺、紛争や戦争が起きたか。
 微:まあ、オレが淹れた紅茶飲めよ、ダイオキシンが蒸発しないいうちに。
 苦:おれはウクライナ大統領や不都合なジャーナリストじゃねえよ!!
 微:しかし、漢が前漢と後漢に分かれるだろ。ロシアも前プーチン、後プーチンだし。
 苦:プーチンは南北戦争かよ!! まあ、でも、劉邦も結果的に漢の高祖になりましたが、若い頃はヤクザでしたから。
 微:負けた項羽はそれ以後高祖恐怖症になったんだろ?
 苦:高所恐怖症だし、それに虞美人と一緒に死んでますから恐れもしません。
 微:間違えた、「高祖パワーでトップ!」になったんだな、中華世界の。
 苦:それは昭和の洗剤の宣伝だろ! 高祖とは王朝創始者の称号で、漢と唐王朝で使います。
 微:控訴とか離縁とか、近づきたくないな。
 苦:もういいよ! 文字化しないとわからないボケは!! 話を戻します。劉邦は前256年に当時の沛郡豊県中陽里、現在の江蘇省徐州市沛県で劉太公と劉媼の三男として誕生しました。
 微:あれ、中国って同姓不婚じゃなかったか? お母さんの方は同窓会名簿に「劉(劉)」って記載したのかな? 「結婚しました」アピールで。
 苦:それこそ昭和の話です。話を戻すと、劉邦はヤクザ者、仕事もせず、酒を飲み博打を打つ生活を送ってました。その岡八郎みたいな劉邦を支えたのが妻の呂雉、後の呂后です。
 微:任俠の徒って、まさか背中に唐獅子が彫られていたとか?
 苦:まあ、古代中国では建前上、血縁・親子関係、本家分家の別を重視する道徳=宗法が社会を律していました。男性を通じて繋がる「陽」の気です。
 微:それで女性は「陰」扱いと。山陽・山陰両方はそれだな。
 苦:いや、南北記号でしょ。ですがそこに埋没したくない才能ある人間、理想に燃える人間は、任俠関係に向かうのです。三国志の劉備や関羽と張飛などはその典型です。
 微:話が前後するけど、3世紀初めにも任俠関係はあったんだな。
 苦:実は中央集権化が進んだとされる前漢武帝期の官僚制も同じ構造です。
 微:まさに暴力団の世界! 北島三郎と山本譲二、桂米朝と小米朝みたいなもんだな。
 苦:最後のは本当の親子だよ! 劉邦が反乱に参加したきっかけは亭長の役目を授かり、陵墓工事の人夫を引き連れて咸陽へ向かったことでした。
 微:丁重に断れなかったんだな。
 苦:ダジャレは不要です。秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡し、劉邦は酔った勢いで逃亡人夫を率いて、反秦戦争の指導者になってしまいました。
 微:その時にチームの名称を「反秦タイガース」にしたんだよね。そこはパソナに頼まないと。
 苦:もう文字化しないとわからないボケはやめてくれ! そこに前209年、陳勝・呉広の乱が起き、反乱軍がすごい勢いで沛に迫ります。
 微:2021年の南アフリカの暴動みたいな勢いだったんだな。
 苦:人徳のない県令を住民は殺し、沛の指導者蕭何と曹参が劉邦を県令に推しました。劉邦はこれを受けて県令となり、沛公と呼ばれるようになったわけです。
 微:阪神・淡路大震災じゃないけど、やっぱり非常時には任俠の人が強いよな。県庁はダメだけど。
 苦:引退したイド爺にケンカ売るなよな、もう! その頃、項梁が新たな反秦軍の頭領となり、劉邦は項梁の勢力下に入ります。その項梁の甥が宿敵となる項羽です。
 微:黄埔軍官学校の蔣介石と周恩来みたいなもんか。
 苦:秦の章邯軍が項梁を破ると懐王は項羽を北方の趙の救援に差し向け、劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせました。
 苦:そして懐王はインセンティブとして「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とする」と約束したわけです。
 微:桃電やな。買い占めもしないといけないし、キングボンビーを押しつけないといけないし。
 苦:劉邦の別働隊は項羽軍に比べて質・量ともに劣ってましたが、交通の要所で食糧備蓄所だった町陳留を帰順させ、そこにあった大量の兵糧と兵士を手に入れます。
 微:本当は脅したんだろ、「お宅にも年頃のお嬢さんいますよね」「夜道は気をつけなさいよ」って。
 苦:それこそ日本の暴力団だよ!! 劉邦は黄河沿いに秦の領域に項羽よりも早く進軍し、関中の南の武関に迫ったわけです。
 微:サイコロの3の目が出ないとゴールできなかったけど、一発で出たんだよな。
 苦:桃電から離れろ!! 趙で項羽が秦軍の主力をなんとか撃破しました頃、劉邦軍は秦帝国最後の砦嶢関も突破し、関中に入ります。
 微:あとは桃鉄ランドの株を買い占める資金の調達だけだな。
 苦:もういいよ!! 咸陽近くまで迫っていた劉邦の元へ秦王子嬰が白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏しました。
 微:中国もダライ=ラマにこうやってほしいだろうなあ。
 苦:パンチェン=ラマという別ルートもあります。咸陽に入城した劉邦は宮殿の女性と財宝に目がくらみ、スケベ心から、しばらくそこに留まってしゃぶり尽くそうとしました。
 微:わかりやすいというか、庶民的というか・・・。親近感が湧いてきたわ。
 苦:しかし家来の樊噲と張良に諫められ、しぶしぶ覇上へ引き返します。
 微:その時に"I shall return!"って誓ったんだな。
 苦:フィリピン撤退時のマッカーサーかよ!! まあ、遊び人だった劉邦の性格が垣間見えます。
 微:大金が手に入っても思いつく贅沢が、ファミレスでステーキセットの3つ注文という感じか?
 苦:競馬で勝った時のキミだよ! 覇上に引き上げた劉邦はこの地で“法三章”を宣言します。
 微:「このミイラは生きています」とか「円天」とか怪しいネズミ講を始めたんだな。
 苦:それは法の華!! 秦の万般仔細で苛烈な法律を「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」だけに改めんです。
 苦:それって、暫定軍事政権だったら、そうとしか言えないよな。
 微:まあそうですが、わかりやすさですよ。これで関中に於ける劉邦の人気は一気に高まりました。
 微:神奈川県警の「見ざる、訊かざる、捕らえざる」の三則で全部「自殺」で処理するアイディアはここから来たんだな。
 苦:県警本部の金庫から8000万円が消える広島県よりいいでしょ。その頃、関中に進撃してきた項羽がは劉邦が東の函谷関を封鎖していたことに激怒しました。
 微:「お前、いつから関中王になったんだよ!!」ってね。でも選挙で負けたことを認めない上に私法に圧力かけて改竄させようとしたトランプの方が凄いというか見苦しいな。
 苦:劉邦はこの危機を、自軍の項羽の叔父項伯を利用して突破します。項伯の尽力で劉邦と項羽は弁明の会合を開き、劉邦は何度となく命の危険を張良や樊噲の働きにより乗り切りしました。
 微:「鴻門の会」ね。『史記』の名場面だけどさあ、何回読んでも聞いても、「司馬遷、お前、見たんかあ? その眼で見たんかあ~?」って思ってしまうよね。
 苦:それは皆さん思ってるでしょう。その後、項羽は“西楚の覇王”を名乗り、名目的な懐王を義帝と祭り上げて辺境に流して殺します。
 微:ひどい話だけど、日本企業の「辞めさせ部屋」の方が人格的に殺しているな。
 苦:前206年に項羽は諸侯の封建を行いますが、それが非常に不公平で、次々と反乱が起きました。劉邦にも約束の関中の地ではなく、遙か西の流刑地とされる辺境の漢中が与えられました。
 微:耳で聞いただけならバレないな。日本で言うと大阪の福島と福島県の福島並み。
 苦:ですがこの時期に劉邦陣営に項羽に仕えていた有能な韓信が加わりました。
 微:冷や飯を食わされるとこうなるわな。さすが格言の本家中国! まさに漁夫の利!
 苦:反項羽の反乱が続発した前206年、劉邦は関中に出撃し、章邯らを破って関中を手に入れ、社稷を建てました。漢王朝の樹立の意志を示したのです。
 苦:そして前205年、劉邦は諸侯との合同軍56万人を引き連れて彭城へ入城しますが、勝利に浮かれて連日連夜の宴会を開き、女を追い掛け回す有様でした。
 微:やっぱり劉邦憎めないなあ。
 苦:項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断し切っていた56万人の漢軍を散々に打ち破ります。アレクサンドロスのアルベラの戦い以上の勝利です。
 微:頽廃的な大敗だったわけだ。
 苦:前204年、楚軍の猛攻撃に劉邦は一旦、西へ逃亡して態勢を立て直します。劉邦は再度項羽に挑みますが敗れ、防衛一辺倒の状態が前203年までつづきました。
 微:余計なことをして戦力を消耗するのはインパール作戦から学んでないな。
 苦:ようやく韓信と彭越の後方攪乱によって楚軍の補給が苦しくなり、漢と楚は天下を半分に分ける事を決めて講和しました。張良と陳平は劉邦に退却する項羽の軍を攻めるよう進言します。
 微:天下半分の計のふりをした後ろからのだまし討ちだな。
 苦:卑怯ですが、劉邦軍は項羽軍の背後を襲います。これを見て他の諸侯軍も雪崩をうって劉邦に味方し、項羽を垓下に追い詰め、四面楚歌の計略で楚軍を崩壊させました。
 微:日本史で言うと武士の作法に則った平氏が「何でもあり」の源義経に負けたようなもんか。
 苦:項羽は自害し、前202年、劉邦は群臣の薦めを受けて皇帝に即位しました。
 微:徳川家康みたいに、唯一とも言える勝利が最大の勝利だったわけだな。
 苦:しかしその後が大変です。成り上がり者、ヤクザ者集団が王朝を作ったわけですから。
 微:殺す権力は理解できても「生かす権力」は理解できないな。安定した秩序をどう生み出すか?
 苦:さらに統治をやるほどに秦の法令の便利さと公平さが身にしみてわかってきます。
 微:しかし「法三章」を宣言してしまった後だし。
 苦:そこで信頼できる子分に任せる封建制と長安と洛陽付近を直轄地とする郡県制を併用し、少しずつ直轄地を増やすことにしました。ただしそれは世代交代を重ねてしか不可能でした。
 苦:劉邦もかつての仲間にほとほと手を焼いて、ついに忌み嫌っていた儒家の力を借ります。
 微:「小便かけるぞ!」と叫ぶくらい嫌っていたのに。よほど苦労したんだな。
 苦:儒家が示した序列を示す衣服、冠、立ち位置、食事、厳かな宣命などで「立派な儀式」を終えた劉邦は「余ははじめて皇帝の尊さを知った」と呟きました。
 苦:そして武帝の時に董仲舒が台頭しますが、この人は公羊学の人です。
 微:イエス的な「心の中で姦淫したら、実際に姦淫したのと同じ」という、あの理屈だよな。
 苦:公羊学では罪を犯すことも計画することも同じです。表では儒教の儀礼で秩序を生み、裏では疑惑だけで政敵を法家の厳罰主義で罰するという、念願の「法と礼の入れ子構造」の完成です。
 微:これが中国の法治主義の原典というか原点か!
 苦:ですから儒教が国教化されたというのは不正確で、儒教的な上帝と天子たる皇帝の関係、天子の徳の高さの奇瑞の関係、天子の不徳と自然災害との結びつきが必然的なものとされたんです。
 微:それでよくないことが起きると改元し、芸能人は芸名を変えるのか。
 苦:後半は余計です。そして武帝が泰山で封禅の儀を行うのもこの論理の延長線上です。
 微:なるほど。それでウイグル族の怨念がサバクトビバッタを中国に招いていると。
 苦:いえ、香港の民主活動家をバッタくらいに思っていると私は思いますよ。

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