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メモ

作品を制作する行為は自分に罪を与える行為に似ている。と言うより、元あった自身が持っている罪の領域、罪の可能性を広げる(ここでは広げると敢えて使うが、不可視であった領域を可視化するような事であり、拡張されたわけではない)行為だと感じる。同時に作品を観ると言うのは、その自身の制作と言う罪を許す行為でもある。観る行為によって、細分化された罪を断片的に許す事になる。ここで大事なのは許す行為が他者によって行われるものではなく、自身によって受動する物であると言うことだ。

罪は許されることによってなくなる訳ではない。さらに言えば一度許されたと思われた罪も、再発するかのように戻ることもある。断片的な許す行為や、新たに制作を通して細分化、可視化された罪によって、オセロのように関連した内容のものがひっくり返る時がある。

さて、罪やら許しなんて言葉を使ったが、これはまた別の形に翻訳可能である。例えば、罪を未開、許しを地図化とも言える。翻訳可能と言うか、それとも読み替え可能と言うかは慎重に選択しなければならないが、今回翻訳可能と仮に置いたのには意味がある。翻訳化には、どうしても元の言語が本来持っているであろうディテールがこぼれ落ちる可能性がある。普段自身の使う言語から離れた言葉(この場合罪や許し)を使うことによって、「未開」「地図化」からこぼれ落ちたディテールを観測する事が可能になると考えるからだ。もちろん同時に翻訳化した事によって新たに含んだディテールについて考える事ができ、それがもたらす自身の言語体系に異物を挿入する事によって解体、再構築による更新を促す事ができる。

つってな。

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