復活草

「平和は人間にとって不自然な状態である」 イマヌエル・カント

「復活草」と呼ばれる植物が存在する。正式にはテマリカタヒバという名称で、イワヒバ科イワヒバ属に分 類される。主に北アメリカから中央アメリカに植生しているシダ植物で、この植物の特徴は完全な乾燥に耐え る能力を持っていることだ。カラカラに干からびたテマリカタヒバは、水を与えるとすぐに ( といっても何時間 かはかかるが )、元の青々とした姿を取り戻す。その特徴から「復活草」と呼ばれるようになった。
「最近何か変わったことはありましたか?」 「そうですね、植物を飼い始めました。」と私は復活草の説明をひとしきりすると、先生は優しい笑みを浮かべながら「それはいいことですね。植物や動物との生活は精神に良いんですよ」と言った。 「それ以外は?その、復活草を育て始めてからは?」 「あまり変わらないですね。悪夢は見るし、そのおかげで眠れないのは相変わらずです。自分で作った料理の味も相変わらずまずいままです。」
私は言わなきゃいけないことを思い出し
「それから、先生...」と言うと相変わらず優しい笑みを浮かべながら 「聞いてます。仕方がありませんし、大丈夫ですよ。」と笑った。 「その、すみません。折角紹介していただいた仕事だったんですが、バールを持った時、どうしても当時の記憶を思い出してしまって」 「いえ、こちらこそ、配慮不足でした。申し訳ない。私からも説明しておきましたし、向こうも納得していたようでした。ただ、びっくりしたと言っていましたよ。」と先生は相変わらず優しい顔で笑うだけだった。 「先生、私はいつ治るのでしょうか。いつになったら以前のようになれるのでしょうか」
先生は相も変わらず、穏やかな調子で、「いつかは治りますよ、きっとね。大丈夫、安心して。しばらく時間 はかかりますが、日に日に良くなっていますよ。」 毎週火曜日は先生のもとに訪れ、こういうやり取りをする。この先生とも 年の付き合いになる。当時の 私の様子も知っているのもあるし、こんな私に対して職業柄というのもあるのだろうが、分け隔てなく接してくれる。病気が良くなってるかどうかは、実際のところはわからないが、こうやって、この先生とお話をする ことは、友人も家族もいない私にとっては、とても楽しみでもあった。


先生と話した後、今晩の食事に必要なものを買いだし、家に着いた私は早速料理を作ることにした。今晩 は鮭のムニエルだ。まだ両親と過ごしていた頃の私は、母の作るこの鮭のムニエルがとても好きだった。母の味 には遠く及ばないし、病気のせいで料理すべての味がグロテスクに感じる。友人の母親が作ってくれた料理を 食べた時の違和感と同じ感覚だ。あれ以来、私が作った料理も、誰かが作った料理もすべてに、あのグロテス クさを感じる。味や作り方は変わらないはずなのに感じる違和感。味覚が変化したのか、病気のせいなのか、 思い込みなのか、わからない。ともあれ、この違和感が確実に私に 年前の事を思い出させる。あれから全て が変わってしまった。
その日の晩も、夢を見た。私が会社員として慎ましく、それなりに責任を感じながら日々を過ごしていた あの頃。実家の机を囲んで、弟と酒を飲んでいる。すると母親が様々な料理を出してくれる。父親が遅れて 登場し、話に花を咲かせる。話すのに夢中になっていると母親が飯が冷めると、食事を急かす。団欒の中で、 ようやく料理を口に入れると、口の中に違和感を感じる。灰を練って固めたような食感の中に硬い異物を感 じる。吐き出してみると私のモノではない誰かの、( 名前を忘れてしまったが、多分彼の)歯が大量に出てくる。 よく噛んでしまったからなのか、歯のカケラが口の至る所に挟まっている。いくら掻き出しても延々と出てくる。 咄嗟にそばに置いておいた人を殺すには充分な長さの鉄の棒で、座って悶えている自分と思わしき人物を殴っ てやると、口の中の異物感は消える。そこで目がさめる。
復活草を育て始めて、何ヶ月かがたった。わざと水もやらず、カラカラに乾かしては、時々生きているかど うかの不安が抑えられなくなった時水を掛ける。そうすると晩には元の青々とした姿に戻る。しばらくはその青々とした姿を眺めたりするのだが、またカラカラに枯らし、その死んでいる状態が何日まで続けられるか に挑戦をする。今はもうかれこれ一ヶ月ほど水をやってない。流石にもうくたばってしまったのではないかとも 思っているが、水をかけて確かめたい衝動をどうにか抑えてる。


「復活草ですが、今最長記録を更新中です。」 「そうですか。」
いつも優しい笑みの先生が今日は珍しく、冷たい気がする。 「だいたい一ヶ月くらい水をやってないんですよ。でも流石にもうくたばってしまっているんじゃないかって思っていて、そろそろ一回水をやって確かめたいって思ってしまって。」 先生は無言だ。今日は一体どうしたのだろうか。
「先生、何かありましたか?」 「それはどう言う意味ですか?」 「いえ、何か今日は少しいつもと様子が違うなと思いまして」
先生はムッとした顔をして早口に 「仮に私のプライベートで何かあったとして、それもまた仮にそのプライベートな事柄が仕事をする上の態度に反映されていたとしても、それはあなたには関係はありませんよね?そう言う時だって人はあるもんです」 やはり今日の先生は何かあったのだ。こんな風なことは、今までになかった。相当嫌なことがあったのだろう。 私は誤魔化すかのように復活草の話を続けることにした。
「水をやった復活草はしばらくは青々としているんですが、何日かするとまた乾燥してくるんです。で、そのま ま放置し続けるんですよ。今回は一ヶ月半くらいは水をやらないでいようと思っているんです。水を与えて確か めたい衝動にかられるんですが。前回は 日くらいで水をやってしまいました。水をかけて青々してくると、もっ といけたんだって後悔するんですが、それも込みで面白いんですよ。」
先生はため息をついてから
「すみません、一昨日、旦那が浮気をしていることがわかりましてね。それで、すみません、つい長い付き合い だからなのか、あなたに八つ当たりのようなことをしてしまいました。」 先生はそう言ってから、申し訳なさそうにしている。
「仕方がないですよ、私だってもし先生のような事が自身に起こったら、先生に八つ当たりしていると思います。 医者と患者という関係ですが、もうかれこれ 年以上の付き合いですからね。たまには私が話を聞く事があっ てもいいと思っていますよ。」
「すみません、本当に。」 そして先生は浮気が発覚したこと経緯についてを話し始めた。
「じゃあ旦那さんは、その、先生が気付いてることはまだ知らないのですか?」 「そうなんです、こうやってる間にも旦那が浮気しているんじゃないかと思うと...」 「証拠はあるんでしょ?そしたら一刻も早く旦那さんに伝えるべきですよ。」 「浮気のことを問い詰めた時が怖いんです。もしかしたら、そのままいなくなってしまうのではないかと思って。
だから、その、気づかないふりをしていれば、問い詰めさえしなければ、このまま何事もなく旦那と過ごせる
のかもとも思ってしまって。なんと言うか、間違っているのかもしれませんが、日常を護りたいんですよ。」 「確かに、そういうことも考えられますね。」そういうものかと私は、妙に納得した。
そうこうしている内に、あっという間に時間が来てしまったので私は先生を飲みに誘うことにした。 「先生、今晩は飲みに行きましょう。そこで相談に乗りますよ。」
その日の晩、先生と待ち合わせをして、先生のよく行くというバーに向かった。 「旦那はどういうつもりなんでしょうか?」 「ただ単純に気の迷いですよ。男ってのは刺激がある程度日常の中にないと、周りが見えなくなって、危険を
冒したくなるもんなんです。きっと今回もそうですよ。だから叱ってやれば、ハッとして元に戻りますよ。」

「そうでしょうか」 「そうですとも。私は以前、まだ会社に勤めていた頃ですが、そう言う刺激を満たすために様々なことに手を
出してました。趣味とも言えないような些細な事ですがね。日々、何か新しい発見とかないと、人ってのはきっ とダメになるんですよ。私も、消化できないエネルギーみたいなものを、毎朝ノートに書きなぐっていました。 旦那さんはきっと、浮気相手のことが好きなのではなくて、変化を求めているのかもしれません。旦那さんとやっ た事ないことに手を出したらいいんじゃないですか?旅行で行った事ない場所に行くとかでも良いかもしれませ んよ。」
「そうかもしれませんね。旅行も映画も最近は全然ですからね。」 「そうですよ、マンネリ気味なだけですよ。浮気を問い詰めた後は、お互いのために、様々な時間を過ごしても良いかもしれないですね。」
先生はしばらく考えてから、手に持っていたグラスをやっと口に運んだ。 「今の生活は満足していますか?」 「えぇ、ある程度は。味は相変わらずですがね。」 「どうかしてみたいって思う時はありますか?」 「最近は思いませんね。復活草に水をやりたいって思うくらいで。」


家に帰り、電気をつける。部屋の窓際に置かれた復活草は、昨日と変わらない様子で元気に枯れているよう に見えた。
次の月曜の晩、私は確かめるために復活草に水を与えていた。まだ生きているのであれば、病院に行く頃に は青々とした姿に変わっているだろう。そしてまた数日で元の枯れた姿に戻る。砂漠の真ん中で、水分もなく、焼かれるような日差しの中でこの植物は自生する。自生しているとはとても言えない姿でも確かに生き続けて いる。何ヶ月も雨が降らないことなんて事もあり得るだろう。だからこそ、この植物はそう言う機能を手に 入れることができた。この植物は、人生の大半をきっと枯れた姿で過ごすのだろう。きっと復活草と名付け
た人は、青々とした姿に変わるのを見て「復活」と言う言葉を連想したのだろうが、私は逆に思えた。
次の日の朝、珍しく悪夢を見ずに済んだ私は気持ちよく起きると、復活草が青々とした姿で死んでいるの を確認した。前日に仕込んでおいた朝食を食べ始めてすぐ、あのグロテスクさがなくなった事に気がついた。


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