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「死に場所を探しているの?」「ちゃんと生きて」

自分は比較的、能力の低い部類の人間だと思う。スケジュール管理はできないし、毎日決まった時間に起きる事もできない。周りがごく普通にやっていることを自分はできないできたし、それで何度も迷惑をかけてきた。やる気を持続させることができる人間かと問われたら、違うと言うだろう。やろうと思ったことさえできないで、ずっと立ち尽くしているような人間だ。義理に厚い人間とは程遠いし、何人も人を傷つけてきた。

「死に場所を探しているの?」と聞かれた時、周りにはそういう風に見えているのが思いがけなかったが、でも確かにそうだったと思う。自分でも気付かなかった。

死にたいと考えたことはないわけではない。だが今もそう考え続けているかといえばそうではない。やりたい事は湧くほどあるし、今はいかに全てのやりたい事を叶えていけるかを考えている。会社を作り大きくしてみたい。自分が大切だと思う人々のために何かできることはないか探して解決したいと思う。自身の作品制作で人が見たことないものを作りたいし、誰もやったことのない場所や事を起こし続けたいと考えている。自分の表現がどこまで通じるのか世界に挑戦し続けたいし、自分が表現をやるきっかけになった先人たちとも話してみたい。そして彼女と美味しいご飯を毎日食べる、そういう家庭を築きたい。…つもりだった。

さっきの質問、「死に場所を探しているの?」に対して答えるとするのであれば、多分「もう見つけている」なのだろう。仕事を受けることも、作品の発表をすることも、彼女との時間を過ごすことも、どれひとつを取っても死に向かっているのだと思う。何かを作ると言うことは何かを生み出すことだと言うが、私の場合は何かを作る事は死への時間を早めようとしている行為だった。死はいつか来る日付ではなく、その行為の中で死にたいと考えていた。この行為こそが私の死に場所だと盲目的に信じていた。それに気づいてしまった。

去年、脳梗塞で倒れ、先日過労で倒れてから色んな友人が言葉をかけてくれた。仲が良ければ良いほど、みんな私に説教をしてくれた。そんな友人の一人が「死に場所を…」とかけてくれた。自分でも自覚できていなかったこの死への欲求は、思い返すと8年前から存在していたように思う。どうしてそう考えるようになったかは、心当たりがいくつかあるし、そう思えても仕方がないように思う。

だが自覚した今、この考えを捨てようと思う。あの言葉をかけられる前、みんなが心配してくれた事は私には響いていなかった。なんなら友人の説教も優しい言葉も次の死への一歩の糧として消化しようとしていた。「ちゃんと生きて」は、これまた別の友人に説教されている最中に出た言葉だ。今では意味がわかる。

誰かを傷つけないように、義理を通して、やりたい事を無理なく進め、毎日健康に過ごせるように青汁を飲み、明日の自分のご機嫌をとって、ある程度の肯定感を持ちながら、ちゃんと生きていくのさ、未来を見据えて、死ぬその日まで。

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