理解

書けないときはほんとうに書けない困ったものだ。大量の文章を書いてゆきたいのに、今ひとつ文章が出てこなくて困っている。そもそも、書くことの意味がまったくわからなくなってしまっている。
書く必要が全くないのに、書きたい気持ちは消えてくれない。さりとて、何の価値も意味もないことに、人の評価や金銭的なメリットがない文章は書くことが出来ない。そんなことを考えずに、ただただ、創造的な行為をしたいと思うならば、躊躇なく書けばいいのに、それが出来ないでいる。
自分の中に、余裕がないからだからだ。自分の価値を認められないからだ。誰かに何らかの方法で評価してくれないと、自信がないし、意味を感じられないからだ。
こんなことでは、ほんとうに価値のある創造は出来ないと思っている。だけど、どうしてもそれが出来ない。
なんとも、哀しく哀れな話である。
よくある小説家の話で、人に見られなくてもいい。ある日あるとき、自分は小説を書ける。書くべきだと天啓があり、人知れず書き始めるという物語がある。村上春樹もそうだった。
自分にもそんなときがときどき訪れる。ただ、その直後いかにそれが無為な考えなのか、頭の中で反芻し、浮かび上がる小説の魂を消してしまう。
それは、確かに正当な人生の選択であり、長時間必要となる小説執筆という愚行を起こさないための防波堤となっている。
自分のこの理性的な選択は褒められることだ。
でも、些細な後悔が常に心の中に生まれて、自分の創造性を蝕んでしまう。決して、いいことではない。そう、想う。
後悔は後に立たない。しかし、後悔を起こさないように生きるのは、あまりにも人生は短く、選択の範囲が少ない。どうしても、人の生き方を限定し、自分の知性と経験が司る道を歩いてしまう。愚かだ。
愚かな人生を生きてゆく僕らは、正しいと信じられるものを必要としている。その中で、生きてゆくしかない。それを考えている限りは、僕は何も生み出せないのだろう。それだけは理解できる。

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