おーびっと。

おーびっとツアー、やりたかったなー。

みんなと俺たちの公転周期、たまたま重なり合うこと、そういうことがテーマだった
から、皮肉にも日々が当然ではないということを思い知るとても大切な機会になってしまった。

10年以上音楽を続けていてこんなことはなかった。
だからこそ、なんというか
「あー、あるんだな。こういうことも。」って強く思ってる。
いま、1人でいる時間、心の奥底までちゃんと潜ってまた新しい何かを見つけることができるように過ごしていたいなと思ってるよ。
こんなときでも、時代は人を1人にはさせない。
孤独ってのは、1人で過ごすことではなくて、自分という人間を自分が見つけられなくなることだ。
いろんな社会や、いろんな表情、しているうちにわからなくなりかけていた自分の本当をもう一度みつける時間がたくさんある。
1人でいることは孤独なことではない、大勢の中にいて、尚、孤独なときは孤独だ。
あなたにはたくさんの記憶と思い出がある。
ライブで見た景色、聴いた轟音、その一つ一つは消えはしない。
パトスはエートスに成り行き、そしてそれは未来への自分や自分を取り巻く環境へのMEMEを作り上げる。
そうやって、ゆっくりと軌道を描いてみんな近づいたり離れたりしている。




敬虔なシスターは欲望から遠く清らかな日々を送っていた。
しかし彼女は私利私欲を満たすことをとあるベイクドプラムケーキによって覚えた。
だが次第にその砂糖の甘さでは満たされない何かに気付く。
愛されているという確証を求め、嫉妬を求め、嫉妬を与え、確証の持てる絶対的な愛を自分のうちに感じるようになる。
しかし、その存在はシュレディンガーの猫のように、箱を開けるまで生きているか死んでいるかもわからない(実際にはそんなバカバカしい話はない、確実にそれは、その箱の中にあるのだ。)
いつしか、情念と普遍を行き来することにも慣れた彼女は、欲望からではなく大きな循環の中から愛を見出そうと考え至る。
愛する人を乗せた零戦を見送る記憶、何気ない朝食の綺麗に焼けた目玉焼きを2人で食べる幸せ、黒く深いその髪を愛おしく思い撫でる記憶、自分の内側に自分ではない誰かの記憶を感じる。それはおそらくデタラメではないだろうという根拠のない確証が彼女にはある。
そして、日の出とともに今までの自分にはなかった衝撃的な情動を得る。
彼女が彼女であることや、世界が世界であること、それはどの程度まで具体的で、どこからが不安定で不確かなものだろうか。
まるで語りがれた民謡のメロディのように、誰かの無意識の意識や記憶を自分の身体の中に確かに感じる。それはおそらくMEMEと呼ばれるもので、知らず知らずのうちに人は人へとそれを伝えて受け継いでゆく。
たとえば物理的な肉体が滅びようとも、魂という概念(MEME)は受け継がれてゆくのである。
常識というものはある日急に非常識になる
それは、生と死を同じ身体の中に持つ我々なら日々無意識に意識することである。
彼女の魂は身体を必要としなくなった。
それはある意味でのパラダイムシフトともいえる。
彼女は大きな軌道を描いて今までの常識とこれからの常識を魂で感じようとしている。
そして、その魂がまた引き合い出会うときに新しい命が生まれる。

orbitツアー、またやらないとね。
ちゃんと物語が続いて行かない。ね。