愛しているということ

「音楽が好きだ。」
ということは
「人が好きだ。」
と同じくらい主語の大きい言葉だ。

「音が好きだ。」
だったとしたら
「音楽が好きだ」
の大部分をカバーすることができるかもしれない。
俺はどちらかというとかっこいい音が好きなのかもしれないな。

と思う。
でも、それは単により大きな主語で蓋をしただけだろうから
「人が好きだ。」
に当てはめると、多分
「物質が好きだ。」
くらい途方もない話になってしまうのかもな。

なんてくだらない問答をしながら夜中に(もはや朝である)
noteを書いているのは、眠れないからだ。
布団の中で目が冴え渡ってしまって、しまいには布団を出てパソコンでこの文章を今認めている。

愛している
ということは、感覚ではわかる。
だけど、それもなんだか漠然としていて大きな話だなと思う。
大きくしていけばしていくほどそれは実感と実体を失って
夜景のはるか彼方に見える点滅する赤いライト(それは空気の歪みで揺らめいて見える)のような遠い世界の話になってゆく。

大切なことを愛しているのだ、と思えば思うほどその不確かさが充満していく。
ギターをポロンと弾く。
何にも心動かない日もあればそうじゃなくて、とてもときめく日もある。
日々の微かなときめきで俺たちは生きていけるのだ。

強く、能動的に愛しているなんて思うこと
本当に可能だろうか?
本当は、愛されていることに気づくことくらいしか人間にはできないのではないだろうか。
深呼吸をして空気を実感する時のように、空を見上げて美しさに気づく時のように
そこにあって然るべきものの姿形に触れた時、初めてなんだか心臓の鼓動の若干のブレに気づく。

愛しているというよりは、愛していたい。
愛していたいというよりは、その微細な振幅に素直でありたい。

遠く、赤く灯るビルの点滅のそのゆらめきに気付くように
それは実感とは遠いところにあるけれど、いつかそこにたどり着けたとしたらその細部は実際にそこに存在しているように

愛するということそのものはおそらく
日々の作法の延長のその袂に誰もがもう備えていることなのだろうと思う。