晩鐘

中学生の頃、美術の時間がとても好きだった。
特に有名な作品の模写をする時間。

美術の教科書に載っている絵ならなんでもいい。
というテーマで模写をする授業があった。
美術の教科書を眺めるのが好きだったので、なんとなく候補は決まっていたのだけれど、パラパラとページをめくっているとふと目にとまる作品があった。
東山魁夷という人の晩鐘という作品だ。
ドイツにある大聖堂の絵らしいのだが、朝焼けを背景に描かれていて
恐ろしく美しいな。
と思った。

模写をする。
ということはある意味で「欲しい」ということなのだと思う。
中学生ながら
「こんな風景の中で何かを感じるということがこれから先の人生にあるのだろうか?」
と思ったのを覚えている。
そして、
「もしもそんな風景の中に自分が本当に存在する未来があるならすごいことだな。」
なんて思ってウキウキしたことも覚えている。

技術的なことは全くわからないので、ともかく筆を進める。
大聖堂のディティールをなぞりながら現地の大工はここを足場にしたのだろうか。とか修復の作業はどんな風に行われるんだろうか。
とか、街並みを描きながらどんな人がここに住んでいたのだろうか。
とかいろんなことを想像しながら作業を進めた。
この絵を描いた時、作者は一体どんな気持ちでどんな境遇だったんだろう。と想像を膨らませるほどに「晩鐘」という作品に惹かれていくのがわかった。

パッと観た時の印象も、目を凝らして詳細を観た時の印象もどちらも物凄いパワーがあって、教科書の光沢のある紙に印刷されたものでもこんなにすごいんだから現物を見たらもっとすごいんだろうな。と感心しながら、拙い自分の技術では比率も質感も全くもって全然現物とは違うのだけれど、それでも模写の作業を進めるのがとても楽しかった。

2時間連続で美術の時間のコマが続く日があって間の10分休憩も席を立たずにただ黙々と模写を続けた。
終了のチャイムが鳴るのが惜しくて、それくらい楽しかった。

今でも不意に模写の授業の時間のことを思い出す。
たまたま教科書に載っている絵に惹かれて、黙々とその世界観に没頭していた時間のことを。
音楽を聞いたり作ったりする時間ととても似ていると思う。

誰かが見たり感じたりした世界がそのニュアンスを色濃く残して作品に落とし込まれていて、それに出会った時の衝撃と知っても知ってもまだ知り尽くせないような懐の広さ。
音楽にも感じることがある。
自分の好きな音楽は出会った時の衝撃もさることながら、いつ聞いても新しい発見があって擦り切れるくらい聞いても劣化することがない。
それどころか、磨かれてさらに輝きを増すような気さえする。

音楽や絵画をはじめとした芸術作品ってのは本来はそうやって自分の知識や教養や経験と共に成長してゆくものだと思う。
今見ても「晩鐘」のもつ印象は変わらない。だけれど、違う表情が読み取れる。
それはおそらく、作品のもつパワーが自分よりもはるかに大きいからなんだと思う。
自分の背丈よりもはるかに作品の背丈の方が高いので、上から見下ろす日は自分の寿命の中では来ないんじゃないかと思う。


消費を前提に作られたものはある段階で「飽き」が来てしまう。
それは、人の人生を抱擁できるほどのパワーがその作品に込められていないということなんだと思うし
背丈に例えると、ある意味で現状を生きる人々の背丈にジャストフィットするように作られているんじゃないかとも思う。

自分の作るもにはなるべく消費に耐えうる何かを込めていたいと思う。
それはおそらく、概念や思考の届かないところにある何かの力の助けを借りないとなし得ないことなのだと思う。
自分の作品なのに、自分ですらその作品を理解するには命が足りない。
そんなものが作れたら音楽家冥利に尽きるなと思う。

常識とか概念とか、現代のパッケージに囚われずに作品の望む自分であり形で言葉で表現で。生み出し続けたいな。

なんて、思ってるよね。ずっと。