蒸発しても消えはしない

夢がまだ夢だったころ、
他人事のように自分の人生を客観視できていたころ。
怖いものなど何一つなく、生きることや死ぬことさえもファンタジーだった。
自分には不可能なことなど何ないという傲慢さと、思い切りのおかげで運命には随分といろんな景色を見せてもらった。

ある意味で、生きることは思い込みの連続だ。
抽象度の低い事柄を自分の信ずるべき事柄だとまっすぐ思い込むことができるなら、知識や教養などもはや必要ないかもしれないが、それでも日々色んなことを知り、吸収して行く過程で自分の信念のようなものに不完全さを見出して不安になりそれをより補強したくなるのは人間の性である。
人が、実質的な生活に何の意味も直接的な恩恵もないようなことを一生懸命に学ばなければいけないと思い込んでいるのも、自分の信じたいことをより多くの事実によって強固なものにしたいからなのである。

夢が夢であるころその全ての思い込みは自分勝手な想像の城壁に守られている。
やがて、守られた世界から外に飛び出して行った時、自分のコミュニティで築き上げてきた常識や真実と違った常識や真実と出会う。
自分の考えや感覚が正しいのかどうか迷うのは当然で普通のことである。
だから、自分はどれくらい価値のあることを知っていて、それはどれほど稀有なことなのかをアピールすることにほとんど意味はない。
空が青くてざわつく心、そのざわつきを何と例えよう。
そういう言葉を本当は聞きたい。本当は伝えたい。
空が青いのは何ちゃらという大気中のなんちゃらにより光の波長のなんちゃらをどうやってこうするからなんだよ?
ということを知っても、やっぱり抜ける青空を見ると心がざわつく。
そのざわつきは、ビーカーの中の水が熱されて透き通る渦を作るときのあの感じに似ている。
音楽や絵画や映画や文学
全ての芸術は実は、自然現象なのだ。
全ての若者が、まだ知らぬ世界を渇望するその心のざわつきも空の青さを目の当たりにしたときのそれに近いものがある気がする。
夢は、芸術は自然現象なのだ。
説明のつかないざわつきは、心が夢や芸術に熱されて原子が暴れまわるときの躍動によって起こるのかもしれない。
自然現象を説明すること、そして理解することは心のざわつきを説明することとは違う。
物事が起きることに因果関係、理由はあるかもしれないが、その物事をどう感じるかが生きるということなのであり、生きるということを説明することはどう感じたかを知ることでしかない。
つまり心のざわつきを説明できても、どこまで突き詰めてもその始まりに理由はないのである。

信じる、ということは
そこにあると、ただわかっていることだと思う。
明るい未来や夢を抱きそこに邁進することは、未来や夢を信じることとは違う。
信じたいと願うこと。願い。である。
その願いのエネルギーは、ざわつきにある。

ずっと絶えることのないそのざわつきは
理由もなく、ただそこにある。
心の中にちゃんとある。
圧倒的なざわつきに触れたとき
何故だかただただ、理由もなく泣きそうになったりする。
全ての物事を知り、コントロールすることなどできはしない。

夢がまだ夢だったころの気持ちで
ふわふわと、愛情の海に抱かれて浮かんでいるような
そんな気持ちで、俺もまた自然現象に成れるように
何事にも価値を持たずそこにただ或れますように。